⑤ 復興は終わり、次の局面を迎えた

 私は福島県の出身だ。町内の企業で働きながら、女川の復興の過程では、イベントや、まちづくりのお手伝いをさせてもらった。そして、2018年7月から女川町商工会で、まちづくり推進役として、販路開拓、事業者の資質向上、町外企業の受け入れサポートなどに取り組んでいる。商工会は、町の基幹産業の水産業、商業、工業も含めて、町全体の民間産業をつないでいる。私の仕事は、復興における民間側の窓口のようなものだ。町の皆さんの手が回らないところを支えたいと考えている。
 女川の復興まちづくりは、公民連携で進んできた。行政、議会、産業界、町民が一緒に取り組んできたという点では、四輪駆動ともいえるだろう。うまく進んだのは、誰もが自分ごとと捉えてやってきたから。誰かがやってくれる、誰かに任せれば何かしてくれるとは思わなかった。町を早く立て直すために、一丸となってやってきた。何をすれば町のためになるのかを常に考えながら動けば、自ずと答えは出てくる。人によって、微妙に捉え方が違うかもしれないが、結局は同じことをいっていると思う。
 成果と反省と聞かれても、私はこの形が出来上がってから町に入ったので、これをもってよしとすべきだと考えている。商店街だけでなく、海岸も含めたエリア全体の形が結果であり、諸先輩方、今やっている人たちも含めて、努力してきた成果品である。もともとは商業の人たちと水産業の人たちには交流がなかったと聞いた。地区間の交流も全くなかったようだ。ところが、町全体が流されたため、そうした垣根が全部取れ、みんな一つになることができた。一方で、この10年の間、今の40代、50代の世代が中心になってやってきたのだが、続く若い人たちへの引き継ぎができていない。若い人の中には町の外に出ていった者もいる。20代、30代の人たちが積極的に町の中に入るような雰囲気が、もう少しあってもよいと思う。
 女川は、震災のトップランナーだといわれてきた。震災から5年、6年、7年と経ち、町ができてきた。シーパルピアに商店が立ち並び、水産加工場の団地もできた。そして、これまで協働で復興に関わってきた人たちは、自分の仕事に専念できる状況になった。私が赴任した2018年ごろ、まちづくりに対する考え方が、何か変わったと感じるようになった。すべてに優先して町づくりに取り組んできた段階を経て、次の局面を迎えた気がした。
 2020年、コロナ禍によって女川に来る人がいなくなり、危機感が走った。これはきっかけに過ぎないが、次の10年、女川町の先を見据えた何かをつくっていこうということになった。なんとなくもやもやしているところを、一気に集めて、もう一度民間でやっていこうという形ができた。第二期女川町復興連絡協議会、FRK2である。阿部喜英さんが会長を務め、私が事務局長を担当する。メンバーは30人ぐらい。つい最近までは、固定メンバーでやってきたが、直近の会では、一度町を出て、帰ってきたような若者や、女川に移住し起業した人たちにも参加を促した。もう少し増やすべきだという話もでている。若い人たちを、どんどん入れて、積極的にまちづくりに参加させていきたい。大学進学で女川を出た子たちが、Uターンで戻ってきても仕事ができる環境はあるのか。家業を継ぐなら仕方ないが、やってみたい仕事、働いてみたい場所、新規の産業をここで起こす。企業を誘致することができないか。若い人たちがはいってくるような仕組みが必要だ。世代間の切り替えができないと、町として維持できなくなる。課題というより、必ずやるべきことだ。まちづくりと並行してやるのは難しいので、あらたな枠組みを作り出す。
 誘客という面では、みらい創造と商工会と観光協会が連携して、いろんなことに取り組んできた。2021年度からは、役割分担を明確化する。それぞれが、やるべきことを着実にやっていく。自分たちがやるべきことを足元から見つめ直す。みんなでやろうという雰囲気を少しかえる。ただ、こうした司令塔を誰がやるかのかが重要になる。
 今後は観光で稼いで攻めていく。コロナが終息し、人の流れが一気に変わったときに、とり残されないようにしなければならない。観光ではビジネスを意識する。視察団体の受け入れも有料化する。これは観光協会の役割になる。まずは、観光協会が稼ぐ。震災後は、黙っていても人が来た。女川の新しい町を見たいという人がやってきた。そこは変わってくる。復興は終わる。シーパルピアを訪れる人の5割が仙台圏から来ているが、高速道路がつながると、気仙沼、大船渡、釜石、宮古にまでいくようになる。女川は通過点になりかねない。もう少し踏ん張って、来ていただく努力をしていかなければならない。(談)

聞き手・文:寺崎竜雄

 

磯部哲也氏(いそべ・てつや)
女川町商工会まちづくり推進役。第二期女川町復興 連絡協議会事務局長