① みんな、同じ方向性が見えていた

 観光に力を入れたのは結果論だ。被災した事業者の再建方法を技術的に検討していく中で、単に商業店舗を再建するだけでは持続可能性は低い。新しい血をどんどん入れ、変われる仕組み、変化できる仕組みが必要だと考えた。「シーパルピア女川」は、町有地の上に、民間企業である「女川みらい創造株式会社」が施設を建て、所有する店舗群を、テナント方式で運営し、街並み全体を管理する仕組みにした。
 こうした考え方は、震災から1年後に開業した仮設の「きぼうのかね商店街」で気付いた。仮設商店街は、被災者の事業再建を対象にした国の補助と、民間からの寄付金をもとに造ったのだが、寄付で建てた方には被災者以外でも入れたので、震災後に起業した人たちもお店をもつことができた。
 女川の復興に当初から関わってくれた小松洋介君がたちあげた「アスヘノキボウ」というNPOがあり、町と一緒に「創業本気プログラム」という起業支援を行っている。そこを受講した方がシーパルピアのオープン時からお店をだしている。その後も、空き店舗が出たときに、起業した方もいる。こうして女川でチャレンジしたいという人が他地域からもやって来て、お店をもつことができる。新しいお店がいろいろできることによって仙台圏からも集客できている。
 震災前は人が繰り返し来てくれるようになれば、そのうち女川の良さに気づき、定住につながると考えていた。足を運ぶきっかけがなく、女川を知らないから住む人が少ないと思っていた。しかしそれは違う。雇用の問題だということに気づいた。被災して、ゼロからまちづくりを進めるときに、新規創業者の受け皿を広く持つ、一切拒絶しないからどんどんやってくれ、というメッセージ出し続けた。
 2015年からは「あたらしいスタートが世界一生まれる町へ。START!ONAGAWA」というキャッチコピーをつかっている。シーパルピアでの出店が機になった人だけでなく、テレワークでも十分に仕事ができる、といって引っ越してくる方もいる。自分がやりたいことを女川だったらできるということらしい。小さなレベルだが応援する雰囲気がある。そこを粋に感じる。空気感がいいから、家族で住むようになる。そうした方が増えてきている。
 女川の震災復興の過程は地方創生だ。この言葉が使われるようになったのは2012年か3年だったと思うが、2011年に復興の計画を考える段階からやってきたことは地方創生そのものだ。どうしたら地域の課題が解決できるかを考えてきた。イベントやゆるキャラなどで、単に人を寄せればよいという観光は失敗する。人を集めることで何を成し遂げたいのか。シーパルピアは観光地というよりローカルショッピングモールだと思っている。ショッピングモールによる集客と、観光地の集客は何が違うのか。そもそも観光とは何かを自分の中で問うている。頻繁に来てくれるところにしたい。

まちづくりとは経営すること

 民間主導のまちづくりは、岩手県紫波町の「オガールプロジェクト」を参考にした。何度も現地を訪れた。また、このプロジェクトの仕掛け人である岡崎正信さんらによる「ブートキャンプ」に、何人も繰り返し参加した。行政も民間も、中心市街地の復興に関わるプレーヤー全員が同じものを見て、同じことを学んだ。きっかけはまちづくり事業家の木下斉君との交流だ。被災から1カ月以上たち、ようやくパソコンがつながるようになってからは、女川の復興プロセスを小まめに相談した。彼の主張は、民間で資金を集めて、まずは立ち上がれということ。その中でオガールのことを知り、そのプロセスや枠組みを、女川駅前の商業エリアの再建、つまりシーパルピアの建設、管理・運営に応用しようと考えた。
 ブートキャンプでの研修は、土地利用計画や、建築時の注意事項などが中心だったが、まだ白紙状態の女川にとって、1年後や2年後に役に立つ話を聞かされてもしょうがない。参加したメンバーのモチベーションも上がらない。ぐずぐずの状態をみた木下君に、怒られながら次回までに会社をつくってこいといわれ、2012年9月に設立したのが民間のまちづくり会社「復幸まちづくり女川合同会社」。女川町の青年団体を代表する民間の人たちを中心に集めた。行政などから支援を待つのではなく、自分から取りにいった連中を集めた。トータルで7名。まちづくりとは経営すること。そのために外貨を獲得し、それを地域内で回し、出ていくのをおさえる。民間事業者は外貨を稼ぐ入り口にいる。建設計画は内需を回す部分の話だが、その手前は民間としておさえるべき。そこを考えろということだ。地元に戻った瞬間から自分の事業の再開に四苦八苦するのに、プラスアルファのことやれというのだ。鬼だと思った。「復幸まちづくり女川合同会社」は「女川ブランディングプロジェクト」を立ち上げ、水産加工品のブランド化や水産業の体験プログラムづくりなどを行った。
 ブートキャンプを通して、民間事業者や、青年団体などの業界の中でも、ある程度リーダーシップ取れる連中全員が、不動産、建築、ランドスケープデザインを含めたレクチャーを受けた。各業界団体のリーダーが、それぞれの立場で発言を繰り返し、まちづくりの方向性を共有した。
 こうした経緯を経て、町としての検討の場の立ち上げを行政に働きかけ、駅前から続く商店街に出店を予定する事業者らにより、2013年6月に「女川町中心市街地商業エリア復興協議会」が設置された。そして、ここでの議論を経て、まちづくり会社「女川みらい創造株式会社」が設立された。資本金は1000万円。出資構成は、女川町が24%、女川町商工会が26%、そして女川町魚市場買受人協同組合が20%、(一社)女川町観光協会が20%。設立当初は、「復幸まちづくり女川合同会社」が残る10%をもっていたが、女川みらい創造の前代表取締役専務である近江さんが代表を務める女川のサッカーチーム「コバルトーレ女川」にそれを譲渡した。町長は民間が動きやすい環境を作る、行政の役割はその下支え、という方針なので、町議会の承認がいらないように町の出資比率を抑えた。
 災害危険区域の中にあたるのだが、「女川町まちなか交流館」という公民館をレンガみち沿いにつくることにした。金融機関もそばに誘導した。人が集まる施設を街の中心部に集め、人の動線を集中させた。それらは観光的な見世物ではない、集客施設である。町営駐車場をその周囲に配置した。みんな何をすべきか、同じ方向性が見えていたので、現在のシーパルピアを核とした駅前の商業エリアができた。民間だけでなく、行政の区画整理の担当者もよくここまで引っ張ってきた。素晴らしいと思う。

若手が参加できる土壌を、リーダーたちが作ってくれた

 女川の町は、津波で全てがなくなってしまった。被災した後、商工会長の高橋正典さん、当時の観光協会長の(故)鈴木敬幸さんが、被災を免れたマサノリさんの工場の前で焚火をたいて話していた。ここがスタートだった。10年前のことなので、記憶があいまいになってきたが、民間事業者はどれだけ早く事業を再開できるか、そのためには何をすべきか、ということを話していたと思う。行政は行政でたいへんだから、自分たちでとにかく何とかするしかないといい、具体のアクションを起こし、動いていた。私は新聞屋なので、そうした情報を配達し、商工会青年部に伝えたりした。このこと自体が希望だった。新しく、次に向かっていく話や情報そのものが希望で、それにすがりながら走るしかなかった。その情報を聞けるところが、あの焚火の場だった。
 そして民間事業者らによる「女川町復興連絡協議会(FRK)」ができた。設立総会でのマサノリさんの挨拶「還暦以上は口を出さず、責任世代に委ねる」を聞いて、この人は何を言ってるんだ、と思った。震災前の女川は、上の世代の人たちががんがん引っ張ってくれていた。いわゆる青年部世代、40代以下ぐらいの連中は言いなりになっていればよかった。兵隊として動けばよかった。いきなり兵隊が指揮を執れと言われても面食らうだけだった。FRKには商工会の委員会をもとに主要な産業ごとに委員会がおかれた。新たにまちづくりを包括的に考える「まちづくり創造委員会」を設置し、私は委員長をやれといわれた。そんな覚悟はなかった。とはいえ、発言の趣旨はよくわかった。何ができるか分からないけれども、とにかくやるしかないと思った。
 おまえの好きにしろ、と言われたので、まずは町内の青年団体のトップをメンバーに集め、話し合いの場を設けることから始めた。先輩方は本当に主要な決定権を与えてくれた。決定する場に若手が参加できる土壌をきちんと作ってくれた。一方で、発言した以上はおまえらもちゃんと責任取らなきゃいけない、ということも言われた。
 FRKの設立総会には約50人が参加した。当時の女川の産業界は、マサノリさんノリユキさんという全くキャラの違う2人のリーダーシップで動いていた。青山貴博さんと私はその右腕として動いた。FRKには戦略室というのがあり、黄川田喜蔵さんが室長、「アスヘノキボウ」の小松君がアシストしていた。黄川田さんはマサノリさん世代。私の世代、つまりリーダーの支援のもとで動いていた若い連中が、いまは独立した事業体をつくるという構図になっている。
 FRKとしての復興計画の原案は黄川田さんが作った。10年たった今でも、地方創生という文脈でみれば、女川だけじゃなくあらゆるところに通用する内容だと思う。また、復興まちづくり事業に民間が主体的に関わることができる体制が必要だと行政に伝え、「女川町まちづくりワーキンググループ」が設置された。FRKのメンバーの多くがワーキンググループにはいり、これまで民間で議論してきたことを町がつくったオフィシャルな協議会の場でも発言し、事業を具体化させていった。

民間主導、行政参加

 女川は、震災前は行政主導の民間参加型だった。震災後は民間主導行政参加型、民間主導の公民連携ともいわれる。逆に公が主導する公民連携は成り立たないと思う。何かあれば行政に助けてほしいという感覚が出てくる。民間主導行政参加型の公民連携がこの10年間の女川を動かしてきた枠組みだ。
 外部の専門家らともうまく協働できたと思う。コンサルにしてやられた、ということをよく耳にするが、それは情報を持ってないから。女川は、実績のある人に直接声をかけた。例えば、小野寺康さんには、駅前から続くレンガの広場のランドスケープデザインをお願いした。東京駅前の行幸通りや、門司港レトロのランドスケープをデザインされた方だ。そうした街並みが町長のイメージだったので一本釣りでお願いした。後背の傾斜地の住宅地の設計には、自然を生かした風景に変えられる専門家として、宇野健一さんを呼んだ。東北大学災害復興実践学分野の平野勝也准教授にも入ってもらった。いくつもの被災地復興事業に関わっている方だ。こうすべきだという持論があっても関係者間の調整の中でそのとおりに進めないジレンマを感じる中、女川だと本領発揮ができるということだった。こうした人たちが加わった「女川町復興まちづくりデザイン会議」が中心となって、新しい女川の町を具体的に描いていった。
 こうしてやってこられたのは、女川は小さな町だというのと、被災の度合いが大きかったことの2点だと思う。小さな中に全ての決定権が集約されている。その中で、早い段階でFRKが方向性を示したことが重要だった。
 この10年間は、目の前にある課題をどう解決するかということをやり続けてきた。それは、今もまだ終わっていない。こうすればよかったというような反省点はあまりない。そのときそのときにベストの答えだと考えたことをやってきた。まだ現在進行形だ。進行形の中の一つとして、昨年の6月に第二期の復興連絡協議会を立ち上げた。コロナ禍には震災よりきつい面がある。コロナ対応には、震災復興と同じぐらいの年数がかかる。覚悟を共有すべきだと思った。まちづくりの提言書の提出にむけて、今は内容を検討している段階だ。第一期FRKから一世代か二世代ぐらい若くなった。私が一番年上かもしれない。
 10年前に震災があって、ハードだけではなく、それまでの仕組み、しがらみも全て流されてしまった。827名の方が行方不明やお亡くなりになった。その中には震災前のキーパーソンもたくさんいた。だから仕組みをもう一度作り直さざるを得なかった。
 withコロナでは、これまで作ってきた新しい仕組みを、全て捨てなければならないかもしれない。レンガみちを中心とした部分に人を集め、繰り返し来てもらえる人を集めるために、イベント、創業のためのプログラム、お試し移住などの施策を考え続けてきた。それを全ていったんリセットして、コロナに対応した施策を考えなければならない。そういう意味では、10年前と同じことをもう一回FRK2で行う。もう一度、指針をたて、目指すべきはそこだということを確認し、そこを外さないように行動し続けることが目的だ。(談)

聞き手・文:寺崎竜雄

 


阿部喜英(あべ・よしひで)
女川みらい創造株式会社代表取締役社長。有限会社梅丸新聞店代表取締役。復幸まちづくり女川合同会社 代表社員。1968年女川町生まれ。震災後、民間産業界の組織である女川町復興連絡協議会へ参画。以来「目の前にある課題をどう解決するか」をやり続けている。