わたしの1冊第21回
『自分たちで生命を守った村』

菊地武雄 著(岩波新書・1968年)

 最近思っていることは、知事や市町村長が選挙のときに、少子高齢化とコロナ渦の対策に取り組むというが、それは日本のどの市町村でも当然取り組む課題であって、その上にどのような魅力あるまち・地域を創造するかに言及しなければいけないのである。将来のまちのあるべき姿のグランデザインを提示して、それを達成するために予算と組織を組み換え、それに向かって行動することである。トップの考えが、地域住民、行政の各部課局、議員らすべてに浸透していることである。
 私はパリ、ボストン、ブラジル・クリチバ、フランス・ナントのまちづくりから多くを学んだ。日本では神戸市と横浜市が、見違えるように一新され、訪れたくなるまちに変貌した。最近、関東で注目しているのは福島市長時代の我孫子市、初代町長斎藤氏の考えをいまでも実践している埼玉県宮代町、そして現在の流山市である。個々に詳述できないのが残念であるが、いずれもトップにたつ市長・町長が、まちの方向を提示し、その方向を実現するために専門家を起用したり、組織と予算の組み換えを行なったりして、住民参加のまちづくりを実行してきたのである。決して独断専行ではなかった。
 ここで紹介する「わたしの1冊」はそれよりもずっと以前の1957(昭和32)年、日本がようやく戦後の復興から立ち直ったころの話である。
 出版されたのが1968(昭和43)年、日本が東京オリンピックを終え、万国博へ向かっていた経済が上向きのころ。しかし、本を購入し読んだのは1976(昭和51)年、日本が第一次オイルショックを経験した後である。この本からたいへんな衝撃を受け、このような考えでまちづくりをしなければという気持ちになった。
 舞台は沢内村(現 西和賀町)。岩手県の西部に位置し周囲を山に囲まれた、当時、極貧の村で、生活扶助家庭の比率は、貧しかった岩手県でも第2位であった。
 この村を大きく変えたのが、大手民間企業の次長まで勤め、育った村に戻ってきて農業を営んでいた深沢晟(まさ)雄である。戻って2年後に教育長になり、助役を経て村長になる。村長を1957(昭和32)年から二期目の最後の年1月に癌で倒れるまで、約8年近く務めた。
 村政に関わってから、〝村びとの命を守る〞ことを明言し続けた。乏しい財政のなかで、この時代にどこでもなし得なかった赤ちゃんと60歳以上の老人に対する医療費の十割給付を実現。行政の各部門をすべて村民の健康に集中させる。具体的には、教育行政は子供たちの健康教育に力を注ぐ。道路行政は冬季に交通途絶した道路を7台のブルドーザーで通行可能にして、急患に対応する。農林行政は開田を進め、耕地面積を2倍にして、食料の確保に注いだ。保健行政は、まず診療所をつくり、東北大学と岩手医科大学に村の保健活動に対する助言指導を依頼し、親病院に横手市の病院をお願いして、あらゆる援助を得る約束を取り付けた。保健委員会をつくり、保健連絡員が地区をまわり住民に村の保健活動を浸透させた。婦人会、若妻会、青年会など村ぐるみで保健活動を担った。
 結果、赤ちゃんの死亡率が、出生の1000に対し69.6であったのが5年後にゼロとなった。村民が長生きをするようになり高齢者の人口が増加した。
 何よりも大きかったのは、村民だれもが持っていたこの村に対する諦観性が解消されたことである。財政がきびしかったからこそ、事業の選択と集中を徹底させたのである。仙台から村長の遺体が戻ってくる沿道には村の3分1の村民が埋めつくしたという。感動と涙なくしては読めない本である。そして、私の地域を見る目は完全に変わった。お金がないからできないとぼやく首長は完全に失格と判断することにした。

 

溝尾良隆(みぞお・よしたか)
立教大学名誉教授、コンテンツツーリズム学会名誉会長、日本観光研究学会評議員、(公財)日本交通公社評議員。理学博士。東京教育大学理学部地学科地卒。㈱日本交通公社外人旅行部、財団法人日本交通公社主席研究員を経て、立教大学社会学部観光学科教授、観光学部教授、観光学部長。後、帝京大学経済学部地域経済学科教授等を経て現職。著書に『観光学と景観』『観光学 基本と実践』『観光まちづくり 現場からの報告 新治村・佐渡市・琴平町・川越市』『風景百年史、ご当地ソング』、共著に『観光学の基礎』など。