④ 次の世代に、渡してやりたい町ができた

 女川出身だが、震災前は石巻で働いていた。災害対応にあたる父の姿をみて女川に戻り、震災のちょうど1年後から観光協会に勤務している。
 震災直後の女川観光を振り返ると、2013年ぐらいまではボランティアバスによる被災地巡りがメインだった。2015年冬のシーパルピアのオープンを機に、被災地女川を見にくる人から、新しくなった女川を見にくる人にシフトした。教育旅行は2017年頃から増えた。被災地巡りという枠の中で女川町が選ばれている。理由の一つには復興の早さ。被災した状況より、そこからどう立ち上がったのかを勉強したいという。海岸広場が整備された。そこには震災で倒れた交番があり、それを囲むように壁をつくり、震災から復興過程を簡潔に示すパネルを展示した。修学旅行では、半日ほど女川に滞在する。観光協会が町内の見学をサポートしている。最近では職業体験が多くなってきた。例えばシーパルピア内の魚屋さんで土産の販売を一緒にやってもらう。2020年はコロナ禍の影響で4月から6月まではキャンセルが相次いだ。9月以降は増加に転じたが12月から再び大きく落ち込だ。
 観光協会の語り部ガイドは3人いる。最近は個人の申し込みも多くなった。最初は無料だったが今は1団体5千円にした。そして、2021年4月からは1万円前後に値上げする。行政や商工会の視察も多い。これまでは役場を含め、方々に連絡がいっていたが、2021年4月からは窓口を観光協会に一本化する。コロナ禍前の時点では、全体の3割が教育旅行、視察は1から2割くらい。女川町の滞在時間は平均で約3時間だ。主に、震災遺構を見て、商店街を回り、食事をして帰る。シーパルピアの飲食店の中には、店頭に行列がでる店もある。
 商工会とは、震災前は、あまり接点はなかったが、震災後に同じプレハブの中に事務所がはいり、双方どういうことをしているのかが分かるようになり、仲良くなった。観光協会、商工会、魚市場関係の買受人共同組合という三つの主要団体が、同じ部屋で事務所を構えた時代があった。そのときに横のつながりが良くなった。商工会の会長と当時の観光協会の会長は、ともに女川の経済界のトップであり、もともとその2人はよく話し合っていたが、現場の事務局レベルが話すようになったのは震災後だろう。
 公民連携がうまくいったのは、お互いが得意な分野を担当したことにつきる。若い町長が町民の意見をよく聞いてくれた。そういう場もたくさんつくった。もちろんFRKの功績は大きい。民間のまとまりがあったからこそ、役場と民間でうまくできたと思う。まとまったのは、震災から町をつくるという同じ方向をみんなが見ていたからだ。一つの方向を向くのは、全ての話し合いをきちんとするから。どういう町をつくるのかを何度も話し合って決めている。小さい町なのでまとまりやすいということもある。30代、40代が率先して動き、町をつくるというやり方が良かった。60代、70代の方が若い人に任せてくれた。自分たちが盾になるから、若い人たちの好きなようにやってみろと言った。そう言われたら若い人はやるしかない。
 石巻、東松島、女川による広域DMOがあるが、効果はかんばしくない。女川単独のDMOはないが、この役割に近いことを観光協会、商工会、みらい創造でやっている。女川駅前から海までまっすぐ続く道はレンガ敷きだ。それで「レンガみち交流連携協議会」をつくり、この3者にお店をやっているところが加わり、毎月1回は話し合っている。DMOといわなくとも連携してやればよい。
 女川の復興はうまくいっていると思う。公民連携がきちんと回ったからだ。この時代に須田善明町長、阿部喜英さん、青山貴博さんがいて、それをサポートするメンバーもたくさんいた。若い人を盛り立てた商工会長の高橋正典さん、元観光協会長の鈴木敬幸さんなど、女川は人に恵まれていた。心から尊敬できる先輩、後輩がたくさんいる。自分ができることをやり、それぞれ自分の役割をきちんと果たしてくれた。うまくまとまって進んできたのが女川だ。苦しい時期にこうした方々がいて、私たちも協力してやってきた。この時代に一緒に活動できたことがすごくありがたい。
 これまで、いろいろ話し合って進めてきたが、全員が満足していないこともあると思う。例えば、高齢の方の中には、昔の女川と全く変わってしまったと言う方もいる。しかし、私たちは次の世代に、こういう町を形づくり、渡してやりたい。これからも、たくさんの人に来ていただいて、女川の良さを分かってもらいたい。観光で来て、いい町だなと思って何回も来るようになって、いつか移住してもらうのが究極の目的だと思っている。そうした機会をつくっていくのが、観光協会の役割だと思っている。(談)

聞き手・文:寺崎竜雄

 

遠藤琢磨氏(えんどう・たくま)
一般社団法人 女川町観光協会 事務局長