⑥…❺ 東日本大震災から10年、震災復興から学んだ教訓、被災地が得たものとは

東日本大震前より岩手県内外の地域づくり活動の支援に、また震災後には自治体の復興計画の策定等にも深く関わるなど、常に地域に寄り添い続けてきた岩手大学 名誉教授 広田純一氏に、震災復興を通して得た教訓などについて伺った。

被災地とのかかわり、続く、震災復興に向けた取り組み

 私は五年前に東日本大震災(以下、大震災、震災とも表記)を特集した「観光文化229号(2016年4月発行)」の中で、震災後に地域住民が復興ツーリズムに取り組んでいる事例をいくつかお話ししました。
 その時に紹介した岩手県大槌町の「おらが大槌夢広場」は、当時は語り部ガイドや研修の受け入れ、若手人材の育成が中心でしたが、今ではそれらに加えて、町の文化交流センター「おしゃっち」の指定管理者となり、町全体の文化交流やまちづくりを担うようになっています。
 また、同じ大槌町の「浪板海岸ヴィレッジ」は、サーファーのコミュニティが中心となり、施設整備や多様なイベントの開催を行ってきましたが、その後、約2万筆の署名を集めて、浪板海岸の砂浜の再生にも大きな役割を果たしました。
 岩手県釜石市の「根浜海岸」では、宝来館の岩崎昭子女将ら、根浜地区の住民や、「一般社団法人三陸ひとつなぎ自然学校」を中心に「一般社団法人根浜MIND」を立ち上げて、根浜地区の復興地域づくりに取り組んでいます。英国式ボートレスキューシステムの導入や避難道整備、語り部ガイド、防災学習・観光旅行等の受け入れ、オリジナルワインの開発、ハマボウフウの活用などです。近年ようやくグラウンド、キャンプ場、海岸などのハードの設備が整い、今後はこれらの施設を活用した取り組みを行っていくようです。去年から新型コロナウイルスが猛威を振るっていますが、そうした中でも、根浜のグラウンドやキャンプ場を使って子どもたちを遊ばせる取り組みを行っています。

観光はテーマ型コミュニティが主導

 このように被災地では様々な取り組みがコミュニティベースで展開されていますが、そのコミュニティは、大きくは町内会のような「地縁型」と、NPOなどの目的を持った「テーマ型」の二つに分かれます。根浜にはその両方が存在しますが、一般的には地縁型のコミュニティのイメージが強いと思います。
 ただ、地縁型のコミュニティである町内会は、その地域に住んでいる人たちの互助組織のようなものなので、観光を目的としていませんし、そもそもその発想自体がありません。新しく何か事業を行う主体にはなかなかなりえないのです。
 例えば根浜であれば、岩崎さんや若い人たち、地区の有志が、震災復興やその先のツーリズムを目的としたコミュニティを作り、一般社団法人などを立ち上げて活動しています。町内会が観光事業を行う例は、私が知る限りではありません。震災を契機に新たにテーマ型のコミュニティができて観光事業に取り組んでいると捉えたほうがいいと思います。
 それから、テーマ型のコミュニティは、もともとそこに住んでいた人たちが主導して構成されたというよりも、UターンやIターンでやって来たボランティアがその地域を気に入り、何かしら地域に貢献したいと観光事業を興して、継続的に関わっていこうとする中でできあがってきたと言えるでしょう。

三陸復興の過程で生まれてきたもの、観光はその特徴的な存在のひとつ

 ボランティアは阪神淡路大震災で定着したと言われています。阪神淡路大震災で特徴的だったのは、「復興まちづくり協議会」がたくさんできたこと。そして復興がある程度落ち着きをみせた後、〝一般のまちづくり〞が展開されていきました。
 東日本大震災の被災地でも、都市部では多少似た状況があったかもしれませんが、東北の被災地の大半は農業や漁業を生業とした農漁村部です。住宅再建が終われば、そこから先の村づくり、まちづくりに、地域外の人が関わるようなことはあまりありません。その代わりに先ほど紹介した浪板海岸、根浜のように観光に関わる取り組みが生まれました。三陸では、特産品の開発も含めて、観光による地域振興が展開されている例がいくつも見られます。
 都市部の神戸市の地域課題はまちづくりで、まち育てという言い方をしていました。一方で、三陸や仙台湾岸の地域課題はまさに地域振興、地域活性化でした。住民や復興支援に入ったような人材などが関わり、三陸復興の過程で生まれてきたもの、その意味では、観光は一つの特徴的な存在なのではないでしょうか。

観光の振興はまだ道半ば、震災遺構や伝承施設が新たなスポットに

 震災と観光について少しお話ししましょう。宮城県には比較的多くの震災遺構が残っています。例えば、山元町には震災遺構として整備された「中浜小学校」があります。素晴らしいと思ったのは、当時の先生方がボランティアで語り部をしていることです。「津波が来る。学校を離れて逃げるか、それとも学校の屋上に避難するか」という難しい判断を迫られ、最終的には屋上に避難して助かることになります。その時の緊迫した様子を当事者から直接伺うことができ、非常に勉強になりました。このような人たちが運営しているからこそ、震災遺構の価値が高まるのです。震災遺構の活用については、運営体制が重要だとあらためて感じました。
 岩手県釜石市でも鵜住居駅前に伝承施設(「いのちをつなぐ未来館」)ができました。運営には釜石東中学の卒業生が加わっています。若い人たちですが、非常に頑張っています。
 すぐ隣は震災で多くの方が避難し犠牲となった「鵜住居地区防災センター」があった場所なのですが、その跡地は「釜石祈りのパーク」として整備されています。駅前に伝承施設とメモリアルパークが併設されているので、多くの人が集まります。芳名板には釜石市で犠牲になられたたくさんの方々のお名前が刻まれていますが、そこに立つと心に感じるものがあります。

 一般の観光客だと、見学や体験はせいぜい一、二時間程度でしょう。通常の観光地の他に、せっかく三陸や被災地に来たのだからと東日本大震災ゆかりの場所にも立ち寄るという動き方をしているようです。観光スポットの一つに震災遺構や伝承施設が入っているということです。修学旅行や震災を学ぼうという一部の人以外は大体そうではないでしょうか。伝承施設の中でお金を使うことはあまりありませんが、地域に飲食やお土産という形でお金を落としてくれることになります。その意味でも地域振興につながっていると思います。
 岩手県では陸前高田市の「高田松原津波復興祈念公園」が、2021年度に開業となります。それに先立って「東日本大震災津波伝承館」は既にオープンしており、かなりの集客があります。仙台方面から来ると、陸前高田市が岩手県の入口となるので、そこから北の大船渡市や釜石市、宮古市、久慈市などに、旅行者をどのように引っ張っていけるかが課題となります。
 ただ、復興過程を通して、被災地の産業構造は大きくは変わってはいません。三陸の基幹産業は基本的には漁業で、仙台湾岸は農業です。十年間、生業の再建に大きなお金が投入されましたが、この間は大工事が行われ、何と言っても建設業が好調でした。それが一段落し、建設業が稼いでいた分を他の産業での埋め合わせができているかというと、まだまだです。
 農林漁業の再建に比べると、観光はどちらかというと後回しにされたように思います。もちろん市町村によって違いはありますが。いずれにせよ観光の振興はまだ途中段階であり、観光で稼げるようになるのはこれからではないでしょうか。
 ちなみに、そのような段階で新型コロナウイルス感染症の問題が起きてしまい、被災地の観光業に大きな痛手となっていることは強調しておきたいと思います。

震災復興からの教訓、被災地が得たもの

 東日本大震災から十年を振り返り、震災復興から学んだ教訓、被災地が震災復興を通して得たものなど、思うところをいくつかお話ししたいと思います。

震災復興から学んだ教訓

① 行政機能が麻痺した自治体には、プッシュ型の支援を
 東日本大震災の被災地は、非常に広域で多様です。その中には職員の多くが亡くなり、行政機能が麻痺してしまった自治体がいくつかあります。岩手県陸前高田市や大槌町、宮城県女川町、南三陸町などです。そうした市町村に「市町村主導の復興を」と言われても、主導も何もそのような余裕はありませんでした。行政機能が麻痺しているのですから、何をどうしたらいいのか判断も十分にできなかったのです。
 そうした地域には別な形の支援、簡単にいうと、国や県はもっとプッシュ型の支援をするべきでした。被災直後には、甚大な被害を受けた自治体に代わって当面の対応を主導、指示するチームを派遣し、事に当たるべきだったと思います。
② コミュニティに対する総合的な支援を
 私はどちらかというと「地縁型」のコミュニティを中心に関わってきたのですが、コミュニティに対する支援が非常に手薄だったということを強く感じています。どういうことかというと、阪神淡路大震災のあとには、被災者個人に対する支援制度ができました。そして、東日本大震災では、中小企業向けにグループ補助金や仮設店舗等整備への新しい支援制度もできました。
 それに比べると、町内会・自治会等、地縁型のコミュニティに対する支援はかなり手薄でした。震災直後、地域住民は複数の避難所等にばらばらに避難せざるを得なかったので、町内会は地元住民の安否の確認さえできませんでした。行政は住民の安否や所在が分かった段階になっても、個人情報の保護を理由にそうした情報を出さなかった(出せなかった)のです。なので町内会の役員さんたちは、自分たちで人づてに情報を集めて回りました。本来、行政は町内会に情報提供し、町内会活動の再開のきっかけにすべきでしたが、そういったことはほとんどありませんでした。また、町内会活動の再開に対する金銭的支援も一切なく、非常に苦労しました。釜石市などは住民が希望すれば仮設の集会所を造ってくれましたが、多くの地域には住民が集まることのできる場所さえなかったのです。
 こうした状況下で「復興計画」を策定することになる訳ですが、復興計画の策定にあたり、自治体は住民たちの意見を聞かなくてはなりません。ところが、住民がそもそも集まることができないのですから、意向集約をできる状態ではなかったのです。釜石市根浜地区のように地域力のある程度強かった所は、住民たち自身が人を集め、地区としての意向集約ができました。しかしそれができずに、行政とコンサルタントが作った復興計画が、そのまま通ってしまった所もたくさんあるわけです。
 次に大災害があったときは、住民同士の情報共有や集会など、地域コミュニティに対する総合的な支援をしっかり行うことが大変重要になると考えています。
③ 合意形成、住民参加、協働のまちづくりの経験値を上げる
 復興計画や復興事業計画の策定に関連して、合意形成や住民参加の重要性が度々説かれてきましたが、実際にはなかなかうまくいかないことが多かったように感じています。比較的うまくいったと言われているのは、宮城県東松島市や岩沼市、福島県新地町などです。共通するのは、ある程度、震災前からいわゆる協働のまちづくりに取り組んでいて、住民参加や合意形成の経験を積んでいたということかと思います。また、人の話をよく聞く、調整型の首長さんが多い印象もあります。
 私も復興計画・復興事業計画の策定に関わった経験がありますが、行政の対応に違和感、というか腹立たしさを感じたことは何度もあります。例えば、こちらが住民とワークショップをしながら作った計画を、向こう(行政側)の都合で勝手に変えてくるのです。事業制度に慣れていない職員さんがやることですから、知識不足、経験不足、時間不足で、十分な対応ができないのは理解できます。それは仕方ないとしても、代わりに提示する計画が住民側の考えを全く台無しにするもので、それをポンと出して、「これでいきたい」と来る。おそらく、これまでそのようなやり方でやってきて、それが普通だと思っているのでしょう。住民参加や合意形成、協働のまちづくりに慣れている職員は、そういったやり方はしません。説明の仕方もうまく、話の持っていき方も、「実はこのようなことが分かったので計画を練り直さなければならないのですが、どうでしょうか」という形で来るのです。
 当時は、私もいちいち怒っていたのですが、少し冷静になれば、生まれて初めて行う事業で経験もなく、道路整備などと同じ感覚で進めているのだから仕方ないかとも考えるようになりました。ただ、自分たちがうまくできなければ、きちんと分かる人たちに加わってもらい一緒にやろうという考えを持ってほしかったです。
④ 復興の過渡期でもきちんとした生活を保障すべき
 この十年で、住宅再建などハード面は大体完了しました。ただ、非常に時間がかかりました。ここで問題にしたいのは、「復興までの過渡期は、ある程度、我慢する必要がある」という暗黙の認識です。仮設住宅自体の作りもそうですが、場所も不便な所にありました。通学路もひどいもので、夜は真っ暗というところも少なくありません。そうした劣悪な生活環境の中で、小学校に入学し卒業する子どもたちもたくさんいました。被災地でなければ当然あったであろう遊び場などもきわめて不十分でした。要するに生活環境があまり芳しくなかった、整っていなかったのです。
 我が国の避難所の劣悪さが指摘されるようになって、避難所の生活環境が大幅に向上しましたが、同じように復興までの過渡期の生活環境についても、もう少し配慮が必要だと思います。「過渡期だから我慢するのが当然だ」という考え方を改め、「過渡期でもきちんとした生活環境を保障する」という考えに立って、今後は過渡期の生活デザインを行っていくべきでしょう。
⑤ 地域を象徴する風景の復興が復興感を高める
 観光に関わることでは、風景の復興が挙げられます。農村ではその地域の大部分を水田の風景が占めることが多いですが、被災した水田の復旧が進み景色が戻ったことで、被災地にいる人の気分が大きく変化したという体験を何度もしました。
 宅地についても、瓦礫は一年ぐらいで大体片付いたのですが、その状態の景色が二年も三年も、長い所では五年も続くことがありました。また自然海岸なども、砂浜の景色が随分変わってしまいました。先ほどから名前を挙げている浪板海岸も根浜海岸も未だに再生できていません。多分、あの海岸の景色が戻れば、復興したという感じが相当強くなると思います。
 今の復興政策は住宅再建が最優先です。産業はその次で、風景などは認識もされていません。しかし、復興事業の進捗と被災者の復興感の推移は概ね比例しています。それを考えると、その地域を象徴する風景の復興ということを、もう少し重視してもいいんじゃないかと感じます。
 風景の復興にあたっては、そこ住んでいる人からすれば、やはり元の風景に戻すのがベストだと思いますが、津波被災地では、元の場所に住むわけにはいきませんから、風景は変わらざるを得ません。海を見ながら暮らしてきた人たちも、高台に移転し、自分たちの生活空間から見える海の風景が変わりました。多くの地域では高い防潮堤が造られたので、高台からでも海が見えにくくなってしまっています。防潮堤の問題はここでは取り上げませんが、教訓として今後しっかりまとめておく必要があるとは思っています。
⑥ 管理者のいない自然風景地の再生の難しさ
 風景の復興に関連しますが、自然海岸の再生が難しいことにも今回気づかされました。要は管理者がいないということです。防潮堤には国土交通省や農林水産省など、管理者がいるわけです。これに対して、自然海岸の場合、管理者がおらず、音頭を取って再生しようという主体がいないことが問題の一端でした。
 では、陸前高田市の高田松原がなぜできたか。それは「高田松原」として国の名勝に指定されていたこと、そして何より陸前高田市と市民が地域のシンボルとして一生懸命に再生に尽力したからです。自然海岸など管理者がいない所は、復旧や復興に向けて推進の体制がなく、放っておかれてしまいがちです。浪板海岸の場合はサーファー有志が頑張り、根浜海岸では地元住民が頑張りました。行政側の体制が整っていなくても、その場所に思いを持った人たちがいれば、なんとかなるという良い事例かと思います。
 考えてみれば、協働のまちづくりが標榜されている時代です。制度や行政の仕組みの問題だと批判するのではなく、思いを持った人たちの主体的な動きによって、自然風景地の再生を進めていくのが、本当は良い形なのかもしれません。

震災復興から得たもの

① 故郷のために何かしたい、若者の意識覚醒
 震災復興から得ることができたものの一つは、特に若い人たちの覚醒です。そこに住んでいた人も出身者も、故郷がこのような悲惨な状況となり、その復興のために何かしたいという若い人たちが増えました。観光関連の取り組みで多少目立ったことをしているのは、そういった人たちが多いです。
 若い人中心に故郷への愛着が増し、故郷の再生に向けて実際に力を振るっている。これは本当に素晴らしいことです。
② 協働のまちづくりの経験値が上昇
 先ほどお話しした自治体と住民との関係性の話では、復興の過程で様々な行き違いや反目もありましたが、良くも悪くも喧嘩しながらでも、以前には考えられなかったくらい、話し合いをたくさん行ってきました。そのおかげで協働のまちづくりの経験値は上がったと思っています。
 大槌町などは典型的で、行政と地元が喧嘩ばかりしていた印象もありますが、今では、役場は役場ができることを、住民も自分たちでできることは自分たちでと、良い意味でより主体性が出てきたと感じています。
③ 震災を契機に、創造的復興を推進
 単に震災前の状態に戻すのではなく、より良い状態にすることを「創造的復興」という言い方をしますが、津波で非常に大きな被害を受けた自治体は、それぞれが創造的復興、創造的まちづくりに取り組んでいます。
 例えば、釜石市は大きな防潮堤も造らず、かさ上げもせず、既成の市街地を活性化しようと、まちづくり会社を作って商業施設なども誘致し、いち早く新しいまちづくりに着手しました。対照的なのは陸前高田市や大船渡市で、かさ上げ区画を整備し、そこに中心的な商業施設を誘致するという形のまちづくりを行っています。
 最終的にどこがうまくいくかは、もう十年ぐらい見てみなければ分かりませんが、震災を契機として、どの地域もその地域なりに、創造的なまちづくり、新たなまちづくりを行っています。これも良いことだと思います。
④ 交通アクセスの飛躍的改善
 三陸沿岸にとっては良かったことは、三陸縦貫自動車道及び釜石自動車道と宮古盛岡横断道路の整備、そして三陸鉄道の南北リアス線がつながったことです。今回の震災がなければ、多分できなかったと思います。あるいは非常に時間がかかったことでしょう。震災で多額の復興交付金が付き、陸の孤島と言われていた三陸の交通状況が飛躍的に改善したことは大きな成果であり、これにより地域活性化の可能性が上がりました。
 もちろん当面はストロー効果の方が大きいと思います。三陸は釜石市も宮古市も盛岡市から非常に時間がかかります。そのため行政も民間も支所や支社を設けていました。ところが道路状況が良くなったことで、支所や支社などは引き払われてしまうかもしれません。また商業施設も苦戦を強いられるかもしれません。しかし、産業の立地や物流、特に観光面でのポテンシャルは上がったと思います。

⑤ 潮風トレイルの今後に期待
「みちのく潮風トレイル」(青森県八戸市蕪島〜福島県相馬市松川浦間、全長1000kmを超えるナショナルトレイル)ができたのは非常に喜ばしいことです。環境省は随分頑張りました。路線を決める時に、地域でワークショップを行っていったことも良かったです。
 私も少しだけ関わらせていただきました。岩手大学の学生や釜石東中学校の生徒さん達と一緒に、釜石市箱崎半島の34km区間について、ウォーキングマップを作り、宝来館に置いてもらっています。
 潮風トレイルについては、日本人でもなかなか歩かない場所を、実際に外国人が歩いています。なにぶん長距離ですから管理が大変かと思いますが、大きな可能性を感じています。
⑥ 一番は、被災地外の人とのつながり
 震災後に一番良かったことは、被災地以外の人とのつながりができたことです。日本中、世界中に東北のファンがいます。これは被災地にとって本当に大きなことです。
 震災後にやって来たボランティアの人たちは被災地のために本当によくしてくださいました。地元の皆さんは、心から感謝されていると思います。結果として、東日本大震災の被災地は、ある意味で、日本で一番、受け入れのメンタリティのある地域となりました。
 十年が経過し、つながりが薄れていくのではないかとの不安もありますが、だからこそ、そうならないように頑張っていかなければなりません。せっかく知名度も上がり、つながりもできたのですから、そのつながりを復興の先の地域振興にどれだけ生かせるかが、これからの地域の課題だと思っています。

聞き手・文 寺崎竜雄・吉澤清良

 

広田純一(ひろた・じゅんいち)
岩手大学名誉教授。1983年東京大学大学院農学系研究科修了。農学博士。東京大学助手、1985年岩手大学講師、1990年助教授を経て、1999年より教授。2020年定年退職。専門は農村計画・地域づくり。1990年代後半より学生とともに、県内外の地域づくり活動支援に携わり、2005年NPO法人いわて地域づくり支援センター立ち上げ(代表理事)。東日本大震災後、地域コミュニティの再建支援や、国・岩手県・被災市町村の復興構想・復興計画の策定に関わる。