④…❷ インタビュー 石巻の10年
10年経ち、責任が重くなったような気がします

 石巻観光ボランティア協会は、2006年の宮城国体の開催にあたり、石巻への訪問客を案内するために設立されました。当初は30人以上いたと思います。私は、石巻の歴史を深く知りたいという気持ちから参加しました。実際には期待したほどの人は来ませんでしたが、せっかく作った団体なので、その後も駅前での観光案内の活動を続けるようになりました。そうした活動が定着してきた頃、地震が起きたのです。私は何も考えることができず、パニック状態でした。少し落ち着いてくると、ボランティアの皆さんの安否確認を始め、顔合わせの機会を設けました。私は、「観光があってこその団体なので休会にしよう」ということを話しました。ところが、「一番被害の大きかった南浜町門脇を眼下にする日和山を訪れ、手を合わせ、お線香を上げ、花を手向ける人がいる。そこを掃除する神社の方に負担がかかっている」と話す人がいます。そこで「日和山は私たちにとってもとても大切なところなので、お掃除をしましょう」ということになりました。ちょうど夏に向かう頃です。お墓が分からなくなった方が塔婆をたて、お参りします。お線香は絶えませんでした。だんだん暑くなってきたので、私たちは麦茶を振る舞ったりしました。

「被災者の気持ちを考えないのか」と、参加者の前でしかられたことも

 そのうち、いろんな方が石巻のことを尋ねてくるようになりました。「何人ぐらい亡くなられたのですか。どういう状態でしたか」まさに質問攻めです。そうした中で、悪気はないと思いますが、記念撮影のように写真を撮っていく人が気になりました。ボランティアで県外から来た人たちでしょう。すごくショックでした。それで、「ここはそういう場所ではありません」ということを伝え、納得してもらいました。その時に、「私たちはきちんとしたことを伝えていかなければならない」と強く思いました。これがきっかけで、新聞を読み、市役所に行って、亡くなった方、行方不明の方が何人いるかなど、尋ねられた時には答えられるよう備えるようになりました。
 ある時、仙台の自治会で会長をされている方から、「当時のことが聞きたい。自治会のメンバーにも聞かせてほしい」という話がありました。内容は不十分だし、心に深い傷を負っているときに、そうした話をしてよいものか、すごく迷いました。それでも何とかならないかというので、会で相談したところ、「他の被災地では語り部として案内をしている。私たちも伝えていくべきだ」ということになりました。
 その後、8月末あたりから、話を聞きつけた県外の方が頻繁に来るようになりました。神奈川、埼玉、千葉の人たちです。石巻観光協会のサイトを通して、電話もかかってきました。当時の状況、多くの方が犠牲になった原因などを話しました。「あなたはどうでしたか」ということを必ず聞かれました。
 8月からバスの団体の案内をはじめたところ、9月になると参加者が増えてきました。自治体の視察、復興ボランティアの方々です。覚悟はしていたのですが、地元の方からおしかりを受けるようになりました。大きな観光バスの中で案内していたので、地元の人たちに内容は伝わりません。「みんなが大変なときに、よく観光をしているな」ということを言われました。案内しているところにきて、ものすごいけんまくで、「ここをどこだと思ってるんだ。それを話すとは、どういう考えだ。被災者の気持ちを考えないのか」と、参加者の前でしかられました。「震災を学んでもらい、自分たちのところで起きたときには、とにかく命を大切に、すぐに避難するということを伝えています」ということを繰り返し説明し、理解していただくように努めました。
 復興ボランティアの方々への案内は2年ほどたつと少なくなりましたが、自治体の視察は今も続いています。会社ぐるみで防災を学びたいというケースや、地域の民生委員の方々が訪れています。修学旅行は震災2年後の2013年からくるようになりました。すぐに来たかったようですが、父兄から反対があったと聞きました。その後も修学旅行は続き、最近は増えています。
 被災の痕跡が強く残っている頃は、被災地への単純往復で訪れているようでした。2013年の後半からは、松島を訪れ、石巻に来て1時間半ぐらいかけて私たちの話を聞くといった観光性のある訪問がみられるようになり、2014年頃から増えてきました。
 お客さまから教えられたこともありました。「ボランティアをしたくても体力や体調の面からできない。私たちは、石巻に来て、直接お話を聞き、そのあと食事をとり、買い物をする。そうやって復興を手伝いたい」という年配の方の団体がありました。そういう人たちがいるということに気づき、「本当にありがとうございました。」という気持ちになりました。その後、私たちの『石巻・大震災まなびの案内』のあと、帰りにお買い物をされる方が増えました。その様子を市民が見ていました。当初は私たちの活動に理解のなかった人たちも、「そうやって助けていただいているんだ」ということに気づき、私たちを励ましてくれるようになりました。震災後4年目ぐらいからです。復興が進み、お店が増えてきた頃です。

「どこに震災があったの」と言われることが多くなりました

 震災から5年過ぎた頃には、震災を知らない人たち、修学旅行生が増えてきました。震災のことを丁寧に伝える必要があります。子どもたちはしっかり話を聞いてくれます。怖かったこと、体験談をより詳しく話すようにしています。津波の高さの表示には、びっくりしています。その後の5年間を振り返ると、復興が進み、いろんなところにビルが建ち、町がきれいになったので、「どこに震災があったの」と言われることが多くなりました。話だけでは伝わらないので、大きなパネルを用意して、当時の様子を話すようにしています。私たちの伝え方も変わってきましたが、伝えるときの気持ちは、昔のままです。当時は見るもの全て、震災が色濃く街の中に残っていました。それに対して、同情的な感想が多くありましたが、今は復興がどのような進み方をしているのかに興味を持っているようです。一方で、それ以上に自分自身の体験談が響いています。大きな地震があって津波が来るまでの間に自分がとった行動や、家族と連絡が取れなかったこと。ガイドの中にはうちを流された人もいます。兄弟や肉親を亡くされた人もいます。そうした話は、耳を傾けて真剣になって聞いてくださるということでした。
 最近のバスの案内は、ほとんどが修学旅行生です。個人で来る方も増え、1時間半ほど歩きながら説明しています。こうしたまち歩きを3年ぐらい前から始めました。自家用車の方には、私たちが車に乗って案内しています。案内の形態も変化してきました。夏休みや冬休みには、子どもに勉強させたいという家族も来るようになりました。少人数の案内が増えてきました。
 ところが、コロナ禍により、去年の2月ごろからキャンセルが多くなりました。修学旅行は、3月過ぎから全てキャンセルです。キャンセルが多いので、もう一度、振り返って研修しています。復興が進みましたので、これまでできなかったところを案内するようになりました。10年たったので、震災の話とともに石巻の歴史を話すようになっています。門脇小学校と大川小学校が震災遺構として保存されることになったので、今では大川小学校の案内が多くなりました。

 10年たち、その時の状況が風化しつつあると感じます。石巻の中でもそう感じます。ですから、よりきちんと伝えていかなければなりません。責任が重くなったような気がします。後継者の育成が目下の課題です。
 今では地元の人たちに会うと必ず「ご苦労さん」と言われます。10年たって風景や建物はずいぶん変わりましたが、まだ400名近くの行方不明の方がいます。すっきりした気持ちで復興を喜べない人たちもいるので、まだまだ複雑な気持ちです。(談)

聞き手・文:寺崎竜雄

 

齋藤敏子(さいとう・としこ)
石巻観光ボランティア協会会長、石巻地区日本中国友好協会副会長。石巻を考える女性の会の初代会長も務めた。