⑥…❹ インタビューたのはたネットワークの10年
人と人が出会う場を作ることが僕の仕事です。これからも。

 僕は2006年12月に田野畑村に移住しました。東京で働いていたのですが、旅行好きが抑えられず、仕事を辞めて1年半くらい日本中をふらふらしていました。この間に、いろんな出会いがありました。今度は観光地で働き、出会いを提供する側になりたいと思いました。その中で、たまたま田野畑と出会ったのです。
 最初に取り組んだのが、地元の漁師が小さな漁船にお客をのせて、北山崎の断崖を海から見上げるサッパ船ツアーです。地域の内外の方々に協力をいただきながら、関わるようになって3年目には軌道にのりました。サッパ船ツアーを企画・主催する体験村・たのはた推進協議会は2003年の設立です。2008年4月にはNPOに移行し、震災時には事務局長に就いていました。
 地震が発生した時、僕は机浜番屋群で、津波がどんどん押し寄せてくるのを映画でも見るように眺めていました。これは危ないと思い、後ろの坂を車で駆け上がりました。幸い怪我はありませんでしたが、振り返ると既に番屋は海にのみ込まれていました。バキバキとか、いろんな音が耳に残っています。そして波が引き、何もなくなり、更地になってしまいました。8隻あった船はなくなりました。その光景を見たとき、もうここで仕事はできないだろうと思いました。

観光客が来て、喜んでくれると、地元に元気をもたらす

 3月20日を過ぎた頃、サッパ船の漁師さんと話す機会がありました。漁師は船がないと何もできないから船がほしい。中古船でもいいから手に入れたい。船さえあればサッパ船はできると話す漁師さんがいたのです。こんな状況でサッパ船やるのかと大きな衝撃を受けました。そして4月1日には、下北の中古船業者に買い付けに行ったのです。その時、サッパ船を再開させるまで、僕にはここでやることがあると決意しました。

 漁業だけやってきた人が、自分の船に観光客を乗せて自分の海を案内する。何気なく見てきた北山崎を絶景だと言って喜び、小さな穴を通り、岩の間をすり抜けると拍手が起こる。そうした快感が、船さえあればもう一度味わえる。定置網や養殖には多くの資材が必要ですが、サッパ船だったら船一つ、ガソリンさえあれば動ける。いち早く収入にもなる。そうしたモチベーションが、動き出すきっかけになったのだと思います。
 震災後、道路が寸断されて地元の人たちともしばらく会えなかった。1週間、10日たって漁師さんと会ったとき、サッパ船を再開させようとなったのは、出会って話したからだと思います。もう何もできないと家に閉じこもっていたら何も起こらなかった。人と人が出会うと、いろんな化学反応が起きるのを感じます。観光客が来て、喜んでくれると、地元に元気をもたらす。観光に来た人たちは、自然を見て、海を楽しんで、元気をもらう。これが観光の基本だと思います。
 なかなか一般の予約が入らない中で、スタートの日をいつにするのか悩みました。観光事業者としては、夏には三陸の海で遊んでくださいというメッセージを出したい。地元の人からの目線も和らぐ頃合いも考えて、7月29日に安全祈願と震災で犠牲になった方への黙とうを含めたセレモニーを行うことにしました。その日、たまたま田野畑駅から歩いて来た親子がサッパ船に乗れるかと訪ねてきたので、飛び込みで第1号のお客さんになってもらいました。お父さんは二人のお子さんに震災の爪痕を見せたかったようです。
 サッパ船は7月29日には5艇でした。家を流されてしまった漁師さんもいましたが、仮設に移って落ち着いたので、船を買って準備を進めていました。8月のお盆には7艇で運航しています。もう1艇は、ちょっと遅れて加わりました。メンバーはもとのままです。
 2011年度は、1000人ぐらい乗せたと思います。2012年4月には三陸鉄道が田野畑駅まで開通し、2014年には最寄りの島越駅まで開通しました。2012年は約3000人、2013年は『あまちゃん』効果で5000人、その翌年は6000人まで急増しました。2011年度は、ボランティアの方が多く、半日はがれき撤去、もう半日はサッパ船や、宮古の浄土ヶ浜を観光という状況でした。2年目からは家族連れや、復興応援ツアーとして被災地を見て、三陸鉄道の復旧した部分に乗り、海産物を食べてお金を落としましょうというツアーが多くなりました。
 ところが2014年をピークに減少傾向になりました。2016年は岩泉で台風による被害があった年です。その後は、4000人とか3000人程度で推移しています。旅行会社の主催ツアーに三陸のバス旅が多くありましたが、バス料金の値上げに伴ってツアー数が減りました。バス代にコストを取られるので、こうした高単価な体験には、お金を払わなくなったと感じます。個人客の割合が増えてきましたが、バスツアーの減少分を巻き返すほどにはなっていません。
 津波の語り部プログラムをやっています。2012年度が復興応援ツアーのピークでした。2013年、2014年頃からじわじわ減り、2015年にはかなり少なくなりました。とはいえ、津波被災地だと知らずに来たお客さんにとっても、ここに来れば被災地であることは一目瞭然です。話が聞きたければお話ししますという窓口は、被災地として設置しておくべきだと考えています。語り部さんたちも、そうした気持ちで10年たった今も活動しています。3月11日の自分の行動と、どうして自分が助かったのかをお伝えしています。いつどこで何が起こるか分からないときに、どうやって自分の身を守るのか。そこから1週間、10日、どうやって生き延びるのか。

語り部として伝え方は変えるが、伝えることは変えない

 震災から3年、4年は、どんどん町が変わっていきました。目の前で工事をしているので、そのままお伝えしていました。田野畑は、震災から7年ほどで沿岸部の大きな工事が終わり、ここ2、3年は静かになりました。そうなると、語り部として伝え方はかわります。しかし伝えるべきこと、天災が起きたときに、どう生きるかということは変わらないと思います。「津波てんでんこ」という言葉があります。家族同士や、足腰の弱いおばあさんを助けるために亡くなった方がいます。「津波てんでんこ」は、そうじゃない。薄情なようだけど、自分だけ逃げて助かればよい。2人死ぬより1人生きたほうがいい。津波が来る、天災に見舞われる地域に住む人として、お互いに了承し合う。そういうことを認め合って生きていこうといった言葉です。てんでばらばらに逃げればいい、ということをお伝えしています。
 震災から10年たち、熊本地震が起こった時点で、被災地といえば熊本になりました。その前後には西日本で豪雨災害がありました。毎年どこかが被災地になるという状況の中で、復興ツーリズムは三陸だけではなくなりました。ところが、地元の気持ちは変わってはいない。熊本地震がおきたときも、仮設は残っていました。三陸のことを忘れてほしくないという話をたくさん聞きました。地元は、そういう気持ちだと思います。しかし、復興ツアーの対象は三陸ではなくなったと感じています。ボランティア団体や、学生さんの団体などから、多くの問い合わせがありましたが、熊本地震を境になくなりました。
 僕自身は、2015年頃までは目の前にやることが明確にあったので、それを無我夢中にやってきました。2013年には机浜番屋群の再建が始まりました。半分は漁師さんが使い、半分は観光用です。そこでは料理体験や塩作りをプログラム化し、販売することにしました。地元の方々と打ち合わせ、塩作りのプログラムを一から作りました。サッパ船も、休日には多くの人がきますが、平日は限られます。安定化のために修学旅行の誘致を考えました。そうしながら進んだり、停滞したりという感じです。
 震災はとても悲しい出来事で、絶対忘れられないことです。ただ、この間に、震災がなければ来なかった人たちが来てくれ、出会えたことは、自分たちの財産です。いい出会いだったと思います。コロナ禍で観光が下火になり、とても苦しんでいます。地元の人もサッパ船の船長たちも高齢化してきました。僕自身も弱気になるときがあります。そうした時にも、お客さんがサッパ船に乗って楽しいよ、番屋を見てこんな文化があるんだ、すごいねって言ってくれると、心から元気が沸いてきます。人と人が出会う場を作ることが僕の仕事です。今後もそうだと信じています。(談)
聞き手・文:寺崎竜雄

 

楠田拓郎(くすだ・たくろう)
NPO法人体験村・たのはたネットワーク理事長。田野畑の「番屋」をベースに、サッパ船ツアーの企画・主催のほか、ネイチャートレッキングガイドやネイチャーゲームの指導、子ども自然体験などのプログラムの企画・運営などを行っている。震災の語り部でもある。東京都出身。