② こうすれば良かったという後悔はない

 2019年4月に現職に就いた。それまでは女川町商工会事務局長として震災からの復興に関わってきた。社会人のスタートは宮城県商工会連合会職員。県内の商工会を転々とする中で、2002年の一年間は女川町商工会で勤務した。そして、あらためて2010年4月に事務局長として着任した。石巻出身だが、女川町に住んでから20年ほどたった。
 震災前、女川町商工会は県内で最も赴任したくない場所だった。よそから来た人に相談を持ちかける気質はなかった。
 反面、気に入られると抜けられなくなる。まちのことを自分事のように考える人たちの集まりだ。陸続きの孤島のような場所なので、自分らで何とかしなければならなかった。なんとかしてきたというDNAがある。
 水産関連を含めて町内にはいくつもの産業団体がある。その中でも商工会は、観光協会、魚市場買受人協同組合といった力のある団体とも協力しながら、女川の経済振興を中心になって支えてきた。被災時の商工会長は高橋正典さん。当時は60歳で、70歳になった今も頑張ってもらっている。水産加工食品大手の社長として、あらゆる業界で信頼されている。「復興連絡協議会(FRK)」の最初の会合での発言は、「還暦以上は口出すな」。口は出さないが必要となれば金は出す。人が必要なら見つけてくる。弾よけにもなるし、けつを持てというならそうしてやる。活動の中心はあなた方若い人たちだ、ということを訴えた。女川の復興はそこから始まった。

1000年に1回のまちづくりを、若い者に託そう

 基幹産業は水産業界であり、女川を支えてきた何人もの先達がいた。その発言を聞いた年長者たちは、手をたたいて、「よく言った。そんでいいんだ。」と言った。一代ですごく大きな規模の自社をつくりあげたが、全て流された。自分が生きている間に、復旧、復興はどうなるのか思案していたところに、マサノリさんが、還暦以上は黙ってろと話したので、そりゃそうだと思ったのだろう。
 観光協会の会長は鈴木敬幸さん。全世界でマグロを捕る船の船主だったが、水産のまちとして観光振興を進めるというような解釈で、観光協会長に就いていた。マサノリさんとともに、諸先輩から女川のことを任された一人だ。
 若い者に任せるというのは、事前のうちあわせもなくFRKの設立総会で話したこと。突然だと言っていたが、こういう人や、こういう人もいる。彼らの時代だということを、頭の中に描いていたと思う。その一人が阿部喜英さん。あまり表舞台で動く人ではなかったが、優秀だということは知られていた。震災直後、焚火の前で、ヨシヒデさんが毎日もちこむ情報と、自分の構想を話す姿をみて、マサノリさんやノリユキさんは、若い芽が育っていることに気づいたのだと思う。加えて、その時は県議会議員だった須田善明さん。今の町長だ。そうした若い者に、1000年に1回のまちづくりを託そうと感じたのだろう。100年先の子ども達に対して責任がとれるようなまちづくりを。
 FRK内につくった産業ごとの委員会の委員長には、還暦より若いが我々より少し上の人たちが選ばれた。筆頭委員会に相当する「まちづくり創造委員会」の委員長には、当時42歳のヨシヒデさんをぶつけてきた。本人も驚いたと思う。私はFRKの事務局長に就いた。商工会の日常業務もある中で、FRKの活動にはそれ以上の力をかけた。忙しかった。
 震災の一年前に「まちづくり塾」を発足させた。きっかけは七十七銀行が、女川の経済界にむけた講演会のなかで、2030年の女川は人口4割減の6000人の町になると話したことだ。これを聞いた商工会長が仲間を集めろとなった。その結果、20人ほどの任意団体として活動することになり、私は転勤後2カ月目で、その事務局長にもなった。それぞれの自発的な行動力をみてみたい。どんな見識を持ってわれわれと付き合い、実行するのかを見ながら、次のことを考えていたのだと思う。メンバーとして、役場の企画課と当時の商工観光課からも一人ずつ加わってもらった。民間だけで考えても駄目だということのようだ。6000人という脅威を突き付けられ、公民ともども、うちは関係ないということでは済まない。
 1年ほど活動を続け、3.11の夜に当年度最後の会議を開催し、翌年度につなげてようと準備をしていた。そのときに津波が襲った。まちづくり塾の問題意識が、FRKの誕生につながったと思う。しかし、20年もまたずに、津波によって6000人の町になってしまった。本当に悲しくつらいスタートだった。
 FRKの設立総会には50名ぐらいが参加した。俺も俺もと入ったり出たりがあったが、最終的には70名ぐらい。それぞれ、自分の仕事にかかわりのある委員会にはいった。その中で「まちづくり創造委員会」は幅広いテーマを扱った。当初は県会議員として相談役顧問の立場でFRKと関わってきた須田さんが、2011年11月に町長になった。FRKと行動を共にしてきたので考え方は尊重する。50人、70人の総意であるFRKでの話をもとに、さらに様々な視点を持った町民を加えたなかで、議論を発展させるために「女川町まちづくりワーキングループ」や「女川町復興まちづくりデザイン会議」をつくっていく。FRKメンバーのほとんどがそこに入ったうえで、さらに多くの町民を巻き込み、構想はブラッシュアップされていった。FRKは今も形式的には存続しているが、震災翌年の1月に「復興提言書」を町と議会に提出し、活動をいったん休止した。ワーキンググループは町の復興推進課が担当し、町長がトップを務めた。

並行して、仮設商店街づくりが始まった

 これと並行して、FRKの中でも議論した仮設商店街づくりが始まった。FRKでは、いろんな人を巻き込み、いろんな立場で発言してもらい、私がそれらをとりまとめ、行政に出向いて、「女川町復興計画」の端々に入れ込んでもらった。仮設商店街の第1号は2011年7月オープンの「コンテナ村商店街」。第2弾は翌年4月オープンの「きぼうのかね商店街」。ともに仮設商店街として観光名所にもなった。コンテナ村商店街は、商工会青年部のOBと現役部員らが、自分らでやってみようと7社、8社ぐらいを集め、商業街区をつくっていった。商工会長がつくれと言ったのでも、町長がつくれと言ったわけでもなく、NGOからもらったコンテナ10個を自分らで組み立て、それをコンテナ村商店街と名付けた。ヨシヒデさんと私が仕掛け人として、店の割り振りから何までやった。「きぼうのかね商店街」は50店舗からなるので、商工会の事業として取り組んだ。自分も仮設でやりたいという人もあらわれた。公平性が迫られる中で、誰がどんなことをしてもよいということはできないので、私が運営を担当した。
 商店街復興の次の段階は本設。つまり今のシーパルピアとハマテラスをどうするかということになる。そうなると私たちが考える商店街の枠にとどまらず、まちづくりそのものに関わってくる。まちの区分け、土地区画整理などの青写真は見えているが、本当にそれでいいのか。「住み残る」、「住み戻る」、「住み来たる」人が、使いやすいまちとはどういうものか。民間だけが何かを言ってもどうにもならない。公民連携の実践によるコンパクトシティづくりに2012年の半ばから取りかかることになった。
 「オガール紫波(岩手県紫波町)」で開催された「復興まちづくりブートキャンプ」が我々の勉強の場となった。参加のきっかけはヨシヒデさん。開催情報をキャッチし、町長にも参加を促し、役場からも民間からも人がでて、一緒に学びに行った。公民連携の手法を学び、それぞれの役割と、双方が持つ得意技をあらためて見直した。復興の青写真は、公と民間がともに考えてできた結晶なので、そこはいじらないまでも、細部をどうするか。お互いの持てるものは何かを出し合った。
 FRKの提言書ができる前から、公民連携の考え方を含めて、こんなまちにしていきたいということを行政にぶつけてきた。「女川町復興計画」が議決される前に、われわれの話を伝え、その中に盛り込まれていった。さらに将来的にはどのようなソフトにするのかをまとめ、2012年の1月にFRKの提言書を町と議会に提出した。その中には中心市街部のまちづくりを担う現在の「女川みらい創造株式会社」の考え方が含まれていた。予言書みたいなものを出したことになる。それまでに町と共有し、双方でオーソライズされた内容だったが、我々はここまでまとめたので、あとはお任せしますと、ある種セレモニー的に、改めて出させもらった。公も民間も、町長もFRK会長、商工会長も、人が変わったとしても、本流はこれでいく。まさに公民連携のあり方だ。それぞれのトップの提案をもとに決まるのではなく、ボトムアップのような形で総意が作られ、トップもなるほどと総意を認める。議員にも事前に民意を説明しなければならない。そうした計画に基づいて、具体的な事業が発案されると反対のしようがない。いろんなものごとの調整がスピード感をもって進んでいく。民間主導の公民連携の、実践的な姿である。公と民間で、本当に腹を割って、泣いたりほえたり笑ったりしながら、コンパクトシティという構想の下で、シーパルピア・ハマテラスを中心にまちをつくってきた。
 まちづくりを具体化させるための「中心市街地商業エリア復興協議会」が2013年6月に設立された。商業街区の形成にあたり土地区画整理が必要だったので、町主体の枠組みとしたが、実質的な会の運営は商工会の私が担当した。ここで「まちなか再生計画」を作成し、2014年12月に国の第1号認定を受けた。再生計画の中で、国から津波立地補助金助成の受け皿としてまちづくり会社が必要だった。商工会でも可能だったが、組織運営の持続性や、志を同じくしたものに会社をやってほしいという思いもあって、「女川みらい創造株式会社」をつくった。出資金を集めて器をつくり、社長にはノリユキさんになってもらった。実質的な経営者となる専務取締役として、当時石巻日日新聞にいた近江弘一さんをお迎えした。ヨシヒデさんは取締役である。運営が安定した頃、近江さんも、60歳を過ぎたので還暦以上は口出すなだ、と言い、経営はヨシヒデさんに渡された。
 この流れの中で、2014年4月に町は「公民連携による商業エリア復興基本方針」を出した。この中には、町有地を活用した公民連携手法による公共空間等の整備や民間施設立地を推進することや、行政に代わって民間が行政の協力を得ながら新しい公共としての「まちづくり会社」を動かしていくことが必要不可欠だと明記されている。そして、須田町長が役場の中に「公民連携室」を設置した。町長も我々と一緒にオガール紫波に行き、紫波町には公民連携室があったので、この仕組みが必要だと考え、女川でもつくったのだと思う。初代の室長は宮城県から出向されていた山田康人さん。そして、2019年4月より役場の正規職員として私が担当している。
 その後、2015年12月にシーパルピア、2016年12月にハマテラスが開業し、大きな商業施設として造るべきものはできた。そこで、一段落したと思った。つくるまでは私なりに必死にやり、なんとかここまでもってきた。しかし、人を呼ぶとなると、私とヨシヒデさんだけでは厳しい。民間として、ここからはソフトの世界だ。震災から8年ぐらいまでは、商工会、FRK、みらい創造が主役となり、無から有を作ってきた。これまでは、生みの苦しみ。難産だった。今は育ての苦しみだ。育てるのは観光協会が中心になってやっていってほしい。いかに多くの人に来てもらい、女川を見ていただき、感じてもらい、お金を使ってもらうのか。もしくは何度も足を運んでもらう。そこから、勤める、定住するにつながるかもしれない。そうした玄関が観光になる。

ハードの完成に10年。次はソフトだ。

 行政という側面では、2019年に役場庁舎、2020年夏に新たな小中一貫校がスタートできた。これで大きな施設関係は全て終わったという印象だ。公民ともども去年の夏辺りに落ち着いた気がする。観光施設は、数カ所残っているが、今年度中には目途が立つ。全部終わるまでに10年かかった。人が住んだり、来たりするところは、有言実行、8年で全て終わらせた。まちとして全て新品になったのが今年度。公民ともども、大きな工事、ハードの建設は一段落した。次はソフトだ。これからいかに人を呼び込むか。行政としては人口が減ってしまった中で税収を上げなければならない。これも公民連携で考える。税収をいかに住民サービスに反映させていくか。今度は行政が、本当に死に物狂いで考えていかなければならない。これからが大変だ。
 振り返ってみて、こうすれば良かったというような後悔はない。その都度、ヨシヒデさん、町長はじめ、例えば役場の観光係の職員や、震災以降にしっかりつながった仲間たちと話をし、会議体やら組織体をつくり、そこでも多くの皆さんと話し、方向性を決めて動いてきた。その中心に配置してもらい、皆さんで話をオーソライズしたとおりに進めてきた。まちづくりの取り組みを悔いたり後悔したりするのは、この10年一緒にやってきた仲間に対して失礼になる。ただ、支えてきてくれた先輩や仲間との別れを思い返すと、言葉に詰まる。とにかく誰もが一生懸命やってきた。(談)
聞き手・文:寺崎竜雄

 

青山貴博(あおやま・たかひろ)
女川町総務課公民連携室長。1972年生。東日本大震災は前職女川町商工会事務局長の時。当時は、商工会が中心となって組織した復興まちづくりを提案する民間団体『女川復興連絡協議会』の事務局として『住み残る、住み戻る、住み来たる』をテーマに各種復興プロジェクトを展開。2019年から女川町に奉職。