観光地づくりオーラルヒストリー<第10回>鈴木 忠義氏
2.「観光」における取り組み

概要

観光地づくりオーラルヒストリー<第10回>鈴木 忠義氏<br />2.「観光」における取り組み

(1)観光分野で何をやってきたのか、観光分野での業績、功績は何か

●常に先手を打って来た~東大助手時代に取り組んだ道路景観計画

僕がやってきたのは、観光地計画ですね。観光地づくりです。
僕は常に先手先手を打って、追いつけ追いこせの連中よりも先に、いろんな提案をしてきたと思います。

その一例が、僕が学校を卒業してまだ2、3年目の東大助手だった頃、道路公団と行った高速道路の計画を作る仕事です。その時、僕は「国全体の事業の中で、観光というものを考えないと駄目だ」と言いました。ただ、単に経済だけ、人やものの動きだけを見て作る計画ではいけない、人間の喜びを考えないといけないということです。

それを体現したのが、アメリカのパークウェイです。誕生したのは1920年代じゃないかな。これに倣って道路を造るならきれいで楽しい道路にしないといけない、日本全体は国土が狭いから、日本全体の国道や高速道路は、緑化などを進めてパークウェイ的にしないといけないと、随分言って来ました。

高速道路のサービスエリアには、建物と駐車場に隣接したエプロンというエリアがありますが、以前はそのスペースなんて全然とらなかったんです。でも、「訪れた人が駐車場の前に行ったり来たりする場所があることが大事なんだ」と大論争をしたこともあります。

道路公団の人達は、予算を節約するために大蔵省から「できるだけ敷地を小さくしろ」と言われているわけで、だから、そういうスペースは不要だというわけです。そうじゃないんですよ。あそこでうろうろしたり、仮設の店を出したりすると賑わいや楽しさが出て来る。変化を持たせることができる空間ですよね。実際、エプロンが広いサービスエリアは非常に使いやすいという話は、経営者から聞いています。

当時は、海外のアウトバーンの交通量が少ないところを見て、そこにあるサービスエリアを手本にしていましたからね。日本のように人口密度が高い国で、特に大都市周辺は事情が異なり、週末交通の集中発生なども考えないといけないということです。

道路公団の初代総裁だった岸道三さんに直接進言したこともあります。「もっと沿線の道路用地をとってください」とね。高速道路が沿線を規制しているように、一級国道も沿線規制をして側道を作り、一度側道に降りて、そこから地域に行けるようにするべきだと。かなり理想的なことも言いましたが、岸さんは僕の意見をよく聞いてくれました。

当時、僕は東大の助手という身分だったけど、道路公団の高速道路調査会という研究団体のサービス部会長を務めました。サービスエリアなどを研究する部会で、メンバーは自動車連盟やトラック協会、建設省の道路課長、高速道路課長などがいましたね。今も高速道路調査会にサービス部会のレポートがいろいろあると思います。 

その後、サービスエリアについては、随分進歩したと僕自身は思っています。観光旅行、観光交通というものが多くなったからかもしれません。要するにマイカーがビジネスだけでなくレジャー、楽しみのために使われているということですね。

●高山・草津・川場

業績、功績と言えるのは高山市・草津町・川場村の3地域での観光計画ですね。もちろん、そのほかの地域にも口頭でアドバイスしたり、講演などもいろいろしましたが、よく行ったのは3つです。高山の市長とは一緒に1週間くらい現場で調査したりしましたね。意気投合していろんなことをやらせてもらったりもして、一種の演習場でもありました。

これらの地域には理解を示して盛り上げてくれる一般住民もいましたね。草津の中澤清さん(後に町長に就任)はそういう点で随分教えていただいて、そのホテルに行ったり、歴史的な発展過程の勉強もして、こちらも教わったし、地域から学ぶところは多かったですよ。

●海水浴場で一人あたりに必要な砂浜面積を算出

僕は全観連からかなり本も出しており、その一つが日本の庶民的なレジャーとして海水浴場をテーマにしたものです。これはキャパシティ論というか、イモの子を洗うような状態でいいのかという問題提起でした。

日本の海水浴場で脱衣場はこうなっているとかいろいろな例を挙げました。海外の文献も引用しながら、例えばアメリカはこうだとか混雑の程度の例を挙げ、各国の1人あたりの砂浜面積も出しています。そこから、一人あたり何平米の砂浜面積が最低必要かといったことを述べており、この考え方は瀬戸内海など、いろいろなところで活用されているはずです。

観光に関する書籍の出版コーディネーター的なことも結構やっていて、いろいろな分野の人に本を書いてもらいました。例えば黒田静夫さん(運輸省港湾局長・当時)にはヨットハーバー等について「海の観光施設」(1952(昭和27)年)(写真2)を、塩田敏志さんには「キャンプ場施設」(1953(昭和28)年)(写真3)を、また聖成稔さん(厚生省環境衛生部長・当時)には「観光地の環境衛生」(1960(昭和35)年)(写真4)というテーマで水洗トイレや食中毒などについて書いてもらったりしました。

僕が書いた「観光開発をどう考えるか」(1961(昭和36)年)(写真5)では、自分で撮りためた写真をたくさん使って、観光地のあり方について論じました。当時人気があった「岩波写真文庫」のスタイルに合わせ、文章ではなく写真主体にしたら、初版3000部がすべて売れて、後からまた3000部刷ったそうです。

写真2「海の観光施設」表紙 写真3「キャンプ場施設」表紙

写真2「海の観光施設」表紙 写真3「キャンプ場施設」表紙
(資料:鈴木忠義氏提供、以下同様)

写真4「観光地の環境衛生」表紙 写真5「観光開発をどう考えるか」表紙

写真4「観光地の環境衛生」表紙 写真5「観光開発をどう考えるか」表紙