日本温泉「人」めぐり~本多静六と田山花袋を繋ぐもの [コラムvol.129]

<はじめに>

 最近、大分県の由布院温泉の仕事をお手伝いさせてもらっているが、どうにも気になる、そして尊敬すべき歴史上の人物がいる。関東大震災の翌年、1924(大正13)年に「由布院温泉発展策」と題する講演を行い、ドイツ流の滞在型温泉保養地づくりを指導した林学博士の本多静六である。一方、どうにも気になる大正時代の温泉本といえば、意外にも「蒲団」で有名な田山花袋が1918(大正7年)に出版した「日本温泉めぐり」だ。
 明治から大正にかけてほぼ同じ時代を生きた二人に接点はあったのだろうか、本多静六はこの本を読んで由布院に行ったのだろうか等々・・・私の興味関心は、全くキャラクターも生き方も異なる本多静六と田山花袋の二人を繋ぐものはあったのかどうかという妄想に近いものである。
 インターネットはそんな歴史上の人物を様々な角度から調べるのにことのほか重宝する。今や誰々は誰々と関係が深いなどと勝手に人間関係を図示してくれるサイトまで登場しているのだから驚きだ。
 本多静六と田山花袋・・・今は亡き二人の関係を探る・・・休日の私のささやかな楽しみ、題して”バーチャル・ヒューマン・ツーリズム”である。

<本多静六はなぜ由布院に訪れたのか>

 我々が知っている由布院温泉の大功労者は、中谷健太郎氏、溝口薫平氏という二人の現役まちづくりリーダーだ。ところが地元の方々にとって英雄と言えば、何と言っても本多静六博士のようである。先生は1924(大正13)年、町の依頼で「由布院温泉発展策」と題する講演を行った。その講演の内容は、ドイツの温泉地をイメージした滞在型の温泉保養地づくりであり、それに意を得た中谷巳次郎(中谷健太郎氏の祖父)がこの方針でまちづくりを進めることとなる。
 本多静六先生といえば、日比谷公園の設計や明治神宮の造林を指揮したわが国の近代林学造園学の礎として著名であるが、今や巨万の富を築いた東大教授として広く知られている。得た収入の四分の一は貯蓄せよ、という著書『私の財産告白』は、人生哲学として未だに売れ続けているらしい。先生がドイツに留学してターランド山林学校に学んだ後、ミュンヘン大学の経済学博士を取得していることはあまり知られていない。林学博士を取得したのは帰国後、東大に戻ってからのようである。
 ところで、由布院温泉に本多先生を招聘したのは誰なのだろう。当時のポスターをみると講演会の主催は町役場となっているが、由布院温泉の将来方向を語ってもらうという企画はどこの誰が発案したのか・・・。それを調べ始めると意外なことが分かってきた。
 その人物とは、別府発展の基礎を築いた油屋熊八である。彼は愛媛県宇和島の米問屋に生まれ、大阪の米相場で失敗、単身アメリカに渡り、そして婦人の実家のある別府にいわばJターンしたよそ者である。「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」という看板を富士山山頂に作らせたのは彼であり、美人バスガイドが案内する別府地獄巡りを開発したのも彼である。そして別府-由布院-久住高原-飯田高原-阿蘇-長崎という九州横断道路を構想したのも彼である。ただ、どうやら彼は自らの事業で稼いだ金を別府発展のためにつぎ込んでいたらしいことも分かってきたがここではこれ以上触れない。
 さて、奈良時代、豊後風土記にも登場する由布院温泉であるが、鎌倉期から江戸期にかけては隠れキリシタンの里としてほとんど文献にも登場しない。明治に入り、陸軍の演習場(今の日出生台)が出来てからようやく活気が出てきたらしい。調べた限り1920(大正9)年創業のいよとみ荘が現存する旅館としては最古参のようだ。油屋熊八が亀の井ホテルの別荘として金鱗湖に隣接して亀の井別荘を建設、中谷巳次郎に管理を任せたのが1922(大正11)年である。加賀出身で庭に造詣の深かった中谷巳次郎が本多静六先生と出会うのはその2年後ということになる。庭をテーマにすぐ意気投合したとのことだ。
 それにしてもこの油屋熊八という人はただ者ではない。アメリカ経験を生かして随分と骨太の企画を実行に移したらしい。別府航路を持っていた大阪商船に1926(大正15)年、別府国際ゴルフ場を開発させたり、1927(昭和2)年には大阪毎日新聞主催の「新日本八景」で別府を温泉地の第一位にしたりもしている。
 ところで、油屋熊八の友人に大正広重と言われる吉田初三郎がいることは意外である。彼は初三郎式絵図と呼ばれる観光鳥瞰図の絵師として有名だ。別府を多く題材としているが、1923(大正12)年に由布院温泉のお隣、湯平温泉名所図絵を残している。
 こうして実は油屋熊八を中心に本多静六、中谷巳次郎、そして吉田初三郎が繋がっていたことが分かってきた。数時間のネットサーフィンでそこまで調べられるのがまさに”バーチャル・ヒューマン・ツーリズム”の楽しみだ。

<小説家、いや旅行作家・田山花袋という人>

 日清戦争で多額な賠償金を得て富国強兵を進め、日露戦争でも勝利した後の大正という時代は、一流国の仲間入りをしたと国民感情が高まっていた時代であったようだ。さらに第一次世界大戦後は、世界で軍縮が進められ、おかげで日本は戦争特需の好景気に沸いたらしい。船旅から鉄道の旅へ、と交通機関の発展も国民の旅心を刺激したのだろう。いわば大観光ブームとも言える時代であったらしい。
 ところで、田山花袋の代表作『蒲団』を私は読んだことがない。何か田舎くさいイメージがあり、読みたいとも思わなかった。当時は「私事」を赤裸々に綴った自然主義小説として衝撃的であったらしい。自分の弟子で好きな女性の匂い(臭いにあらず)のするフトンで涙するという内容のようで、今ならキモイ!ということになるだろう。
 小説家・田山花袋の旅行作家としての顔はあまり知られていない。実は博文館のサラリーマン作家として『日本一周』や『鉄道旅行案内』など大量の紀行文を出している。原作『温泉めぐり』は、彼が46歳のときに出されたもので、自然主義作家の面目如実という異常なほど事細かな描写が続く。見たもの、食べたもの、会った人、使った金・・・。しかも他の温泉地とも比較した彼の観察眼はなかなか鋭い。
 この本の一節に九州の温泉が取り上げられているのだが、面白いのは雲仙温泉ではなく、小浜温泉を国際的な海浜温泉リゾートとして高く評価していることである。確かに島原半島、特に雲仙には上海や香港などから大勢の避暑客が訪れていたことは知っていたが、まさか小浜温泉を地中海のカンヌやニースなどの海浜リゾートに見立てて外国人がやって来ていたとは驚きである。
 この九州編で別格の扱いを受けているのが、何と言っても別府温泉である。”伊豆の熱海や伊東などは殆ど言うに足りない”とまで言っている。実際、彼の年表をみると、確かに1908(明治41)年に九州方面を旅行しているが、やはり関東周辺の温泉地への旅行が多く、なかなか九州までは足を運べなかったようだ。
 私にとって残念なのは、由布院温泉の地名が全く出て来ないことである。別府から由布、鶴見の山々を越すと”何とかという湯があって”・・・と湯平温泉かと思わせる記述はあるのだが・・・。
 となると、本多静六先生が「由布院温泉発展策」を講演するときに『温泉めぐり』を読んでいたとはとうてい思えず、二人を繋ぐものは今回残念ながら見つけられなかった。さらに研究を進めてみたい。笑。
 なお、蛇足ではあるが、本多先生が巨万の富を築いたのは、鉄道株に投資していたことによるようだが、東京大学を退官した後、全ての財産を匿名で寄付していることはあえて付け加えておきたいし、ここでは触れないがその理由も極めて興味深いものがある。

<おわりに>

 それにしても、このバーチャルな「人をめぐる旅」は全く金を使わない。私としてはあまり他人にはおススメできない妄想ツーリズムの一つだが、リアルな”ヒューマン・ツーリズム”は、コミュニティやコミュニケーションが稀薄になりつつある現代、かなり有望なニューツーリズムとなりうるだろう。まさに由布院温泉は自らを「人脈観光地」と称して人と人との繋がりや縁をとても大切にしている。そんなことも由布院の魅力の一つになっていることは間違いない。

参考文献:

  • 本多静六博士の『由布院温泉発展策』 由布院温泉観光協会(2006)
  • 『日本温泉めぐり』田山花袋 ランティエ叢書 角川春樹事務所(1997)
本多静六
本多静六
本多静六博士の『由布院温泉発展策』
由布院温泉観光協会(2006)
油屋熊八
油屋熊八
亀の井ホテルホームページより
 
田山花袋
田山花袋
ウィキペディアより