「前田正名」という人~阿寒湖の人と自然を守ってきた前田一歩園の初代園主とは? [コラムvol.177]

はじめに

 本年4月1日から公益財団法人として新たなスタートを切った日本交通公社。その機関誌『観光文化』がこの10月の215号から誌面が改訂されることとなりました。改訂第1号の特集テーマは『観光地づくりの本質を探る~観光まちづくりの心とは』。終わりのない営みである観光地づくり、いわば永遠のテーマを私が責任者となって取りまとめることとなりました。
 実践編として取り上げた3つの観光地の中の一つが北海道釧路市の阿寒湖温泉。天然記念物のマリモで有名ですが、この阿寒湖の大自然が守り続けられてきたのは、昭和9年、日本で最も古い国立公園の一つとして指定されたことが大きいと思います。しかしそれ以前から、阿寒湖周辺約3,800haの土地を所有し、広大な森林の保護育成に日々努力してきた日本版ナショナルトラストとも言うべき「前田一歩園」という組織の存在はほとんど知られていません。
 先日、一般財団法人前田一歩園財団の前田三郎理事長にインタビューしてみて、改めて思ったことは、阿寒の“人”と“自然”を守ってきた前田家の「志」の高さです。その前田一歩園の初代園主が前田正名(まさな)という人でした。ほとんど歴史的には語られることのない前田正名とは一体どういう人だったのでしょうか。

1.前田正名という「人」

 日本歴史学会が編集した「人物叢書」は、わが国の歴史を動かしてきた人間にスポットをあてた一大伝記集。100号刊行の際には菊池寛賞を受賞しました。そのシリーズの一冊として『前田正名』(祖田修著、(株)吉川弘文館発行)が取り上げられています。彼を単なる保守的な思想家と片付けるのではなく、近代日本経済史上特異な存在として再評価されるべきだと詳細な文献調査をもとに指摘しています。
 一方、2012年1月の宝塚雪組公演『Samurai(原作・月島総記「巴里の侍」)』は、20歳でフランスに留学し、プロイセンとの普仏戦争に巻き込まれた若き日の前田正名を描いたものです。それは冒頭、「阿寒湖を自然のままに守る」という正名の志を引き継いだ光子(三代目園主・元タカラジェンヌ)が登場する感動的なシーンから始まりました。

薩摩辞書
写真・薩摩辞書
前田正名の仏留学費用を捻出した

 そもそも前田正名は、薩摩藩の貧しい漢方医の六男として1850年(嘉永3年)に生まれました。16歳で長崎に留学(藩費)、その後、坂本龍馬から最も文明の進んだ国として紹介されたフランスに留学するため、和訳英辞書、通称『薩摩辞書』を編纂(当時、日本に技術がなく、上海で印刷した)し、その資金を元手に1869年(明治2年)、フランス人であるコント・モンブラン伯の随行として横浜を出発したのでした。前田三郎理事長によれば、正名は長崎で龍馬から刀を譲り受けるのですが、その刀は今でも前田家に保管されている(刃の部分は戦時中の金属供出でなくなっている)そうです。

 正名は普仏戦争という虚しい戦争に外国人として参加するという体験を通じて、西欧文明に対する劣等感から解放され、改めて日本文化の貴重性と近代化の方向性(殖産興業政策)を確信するに至ったようです。それは、いきなり西欧から輸入した大工場中心の産業政策からはじめるのではなく、これまで日本人が営々として築いてきた生糸や茶、織物など在来の産業を振興すること、そして流通の近代化、つまり外国人が仲介して搾取されるのではなく、日本人が直接輸出することによって地方産業を振興させるべきという考え方でした。8年後の1869年(明治10年)、日本政府のパリ万博参加と大量の種苗をお土産として、西南戦争の真只中に帰国することとなりました。

2.帰国後の正名の活躍-山梨県知事も

 正名は、内務、大蔵、農商務の各省に勤め、農商務次官を最後に41歳で退官するわけですが、在官時代、在野時代とも一貫して地方産業の近代化に献身します。
 正名最大の功績は、1884年(明治17年)、西欧の産業経済事情を背景とした『興業意見』の編纂と言われています。輸出産業の保護・育成と直輸出を主張し、当時の政府・松方正義らと対立しました。正名は、人の意見ではなく、物に聞く・・・つまりは現状を直視して政策を立案すべきと主張し、「農工商調査」や「町村是運動」などを全国的に実施しました。
 地方の産業振興の一環として実業界の組織化運動を展開していく一方で、各地で模範となるよう牧畜、果樹園、林業などの事業を興していきました。そして「神戸オリーブ園」や「播州ブドウ園」などの事業体に付けた名称が地名+前田一歩園でした。この一歩園の名称は、正名の座右の銘「ものごと万事に一歩が大切」に由来しています。
 1888年(明治21年)には、39歳で山梨県知事として赴任、在任期間は短かったのですが、「簑笠知事」として県内をくまなく視察し、話題となりました。山梨県でブドウの栽培が盛んになったのは正名の奨励によるものと言われています。留学先のフランスで農業について学び、その知見が生かされたのだと思います。
 しかしながら、正名は、輸出産業を主とする地方在来産業の育成・振興(マクロな経済政策)については全国行脚し、その必要性を訴え、一定の成果を上げましたが、自らの模範事業(ミクロな事業経営)はあまり得意ではなかったようです。国内の開田事業や製紙事業、さらにはペルーの銀山開発など着手した事業は至る所で頓挫してしまいました。

3.正名と北海道との繋がり-阿寒湖周辺を国立公園、そして観光地へ

 さて、正名と北海道との繋がりは、1892年(明治25年)から始まる全国行脚(前田行脚と言われる)の一環で、翌年の北海道遊説だと思われます。その後1899年(明治32年)釧路の天寧(てんねい)に前田製紙合資会社を設立、さらに1906年(明治39年)には北海道国有未開地処分法に基づき阿寒湖畔の土地約3,800ヘクタールを取得しました。
 私が注目したいのは、当初は“耕作に供するためと牧畜植林に供するため”の目的で、国から土地の払い下げを受けて、農場・牧場の経営に乗り出したのですが、西欧への留学経験のある正名は、阿寒湖一帯の濃い針葉樹と美しい湖との調和に魅せられ「スイスに勝るとも劣らぬ景観」と感嘆し、「この山は切る山ではなく、観る山にすべきである」と観光地への発展を洞察していることです。
 その後、1931年(昭和6年)に自然公園法の前身である国立公園法が施行され、1934年(昭和9年)に阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖を含む約9万ヘクタールが阿寒国立公園として指定されました。その指定請願が帝国議会に提出されたのが、正名没年の1921年(大正10年)でした。

4.正名が残したもの-前田一歩園の役割


前田正名の胸像
阿寒湖畔の前田公園にある
前田正名の胸像

 正名は1921年(大正10年)、「前田家の財産はすべて公共事業の財産とす」という家憲を残して他界し、男爵の称号を得るとともに、最後まで残った阿寒前田一歩園を次男である正次に託したのでした。
 二代目正次は病弱で、阿寒湖畔には毎年夏の一時期しか住んでいなかったようですが、「雄大な阿寒湖畔の自然を後世に亘り、存続させたい」という父の意志を固く守り、阿寒国立公園指定に努力し、“切る山から観る山”を実現すべく湖畔を本格的な観光地を目指します。そして周囲の反対を押し切って、地域の住民が旅館や住宅などを建設することを見込んで(株)前田一歩園製材所を設立したのです。しかし、もうこの時代には、木造で住宅や旅館を建てることはなくなり、毎年、赤字が続き厳しい状況を余儀なくされたようです。
 1984年(昭和59年)、この製材所跡地にホテルが建てられましたが、2008年、約30年間に亘る営業に幕が閉じられました。これからこのホテル跡地の活用をどうしていくか、また阿寒湖(マリモ)の世界遺産登録に向けて、これからも阿寒湖の住民と前田一歩園との二人三脚が続きます。

なお、三代目となる正次の妻・光子は、太平洋戦争が始まった2年後の1943年(昭和18年)から1983年(昭和58年)71歳で亡くなる40年間を阿寒湖畔で生活し、アイヌの方々を含めて多くの住民から“阿寒の母”と慕われました。
 光子最大の功績は、阿寒前田一歩園の財団法人化でした。それによって阿寒湖周辺の大自然が保護されることとなりました。その経緯については『前田一歩園・10年の歩み』(1992年10月((財))苗田一歩園財団)に詳しく記録されています。

一般財団法人前田一歩園財団の活動については、以下のURLをご参照ください。
 http://www.ippoen.or.jp/index.htm

※本稿は、当財団機関誌『観光文化 第215号』に掲載した拙稿「地域がビジョンを創り、実行する・阿寒湖温泉 ~前田一歩園の理念を生かす」をもとにしています。

<参考文献等>

  • 人物叢書『前田正名』 1973年1月 祖田 修著 (株)吉川弘文館
  • 『前田理事長講話(レジメ)』 2012年2月 (一財)前田一歩園財団理事長 前田三郎