旅の心 [コラムvol.113]

2010.03.26

観光文化事業部 黒須宏志
col-113

要約

 思いがけないことが一生の思い出になることがあるように、旅もまた、思いがけないことで思い出に残る旅になることがある。旅は心でするもの。自由でしなやかな心を持って旅立ちたいものである。

本文

 思いがけないことが一生の思い出となる、あなたはそんな出来事に出あったことはないだろうか。もしも出かけた先でそんな"事件"に出会えば、それが"忘れえぬ旅"となる。それが例え隣町で遭遇した出来事であったとしても、だ。
 私にとってそんな"忘れえぬ旅"のひとつが学生時代の真夜中のドライブの思い出だ。私は1980年代に京都で学生時代を過ごした。夕方あたり、下宿に集まった友達の誰が言い出すともなく、突然、これからどこそこへ行こう、という話になる。行先はある時は潮岬、ある時は長崎であったりした。今にして思えば、この上なく自由な身分を保障されている学生が、その自由をダメ押し的に最終確認するような行為であったと思う。
それは究極の無意味無頓着な"旅立ち"遊びであった。
 ある時、そのドライブで京北の美山町の方へ行った。方へ行った、というのは、別に美山町へ行こう、という話ではなく、ただ北の方へ、鞍馬へ行く道をどんどん山奥へと辿って行ってみよう、という考えだけで出発したからだ。
 ところが…、その道は驚くほど暗く山深い道だった。ヘッドライトが照らす道の僅かな部分を除けば、私たちのいる空間は文字通り漆黒の闇に満たされていた。星も月もなく、くねくねと曲がりくねった山道はどこへ通じているのか見当もつかなかった。仄かな明かりを透かしてみるとガードレールの向こう側はどうやら森らしい。だがその森の奥に一体なにかがいるのか、いないのか、本当にその奥はただの森なのか、だんだんと自信がなくなってきた。その闇の底のどこかに遠く忘れ去られた亡者達が潜んでいるとしても不思議ではないような気持ちになった。窓を開ければ暗闇で結ばれた異界に手が届きそうな思いがした。
 夜の闇がそんなにも深くて奥行きのあるものだということをそれまで知らなかった。だから少し怖い気分も味わった。だが恐怖よりはるかに大きかったのは、それまで感じたことのないような深い解放感であった。その際限ない暗闇の中を、どこまでも、どこまでも自由にさまよい歩けるような気がした。暗いという実に単純なことに自分をこんなにも強く感動させる力があることに、ただただ驚かされた。

 振り返ってみると、あの時の自分は、少々"トリップ"した状態に近い精神状態であったのかもしれない。幸運なことにその頃の私はまだ運転免許を持っていなかった。もしその状態でハンドルを握っていたのが自分だったとしたら、私の時間はその至福の一瞬のまま止まっていたことすらあり得たかも知れない。
 それとともに思うのは、あれは間違いなく旅だった、ということだ。思いがけず、それと身構える暇すら与えずに、未熟な私を打ちのめしていった。そして今まで行ったどの旅行にも劣らない充実した記憶を私に残してくれた。こうして考えると、決して遠くへ行くことばかりが旅ではない、とつくづく思う。"トリップ"という言葉が、一方では移動を意味し、他方では心が翔ぶことを意味するのも、決して偶然のことではないだろう。両者はもともとかなり近い関係にあるのだ。

 国木田独歩は短編「忘れえぬ人々」の中で何気ない一瞬の中に宿る永遠を描いてみせた。この短編に描かれている「忘れえぬ人々」はどれも無名の、しかも通りすがりの人々だ。情景のいくつかは旅の中に設定されており、それらの無名の人々との"一期一会の"出会いが深い共感のまなざしで語られている。独歩は日常の中に遍在する真理を強靭な言葉で切り取った。だが同時に私はそのまなざしの背後にある自由でしなやかな心に惹かれる。それはありふれたものの中に真理を見、人々のありのままの姿に共感する力を持った心だ。

 月日は百代の…、などと改めていうまでもなく、旅を旅たらしめるものは心だ。旅は人を自由にする契機を与えてくれるが、それを最終的にものにできるかどうかは、やはり心にその準備があるかどうかなんだろうなと思う。だが、そうだからといって、身の回りのものをキャリーバックに詰めるように、心に旅の支度をさせることなどできはしない。それどころか、出発前に、あれを忘れてないか、これを忘れてないか、とつまらないことで腐心するのが人の常だ。本当の旅なら支度など要らぬのではないか。身ひとつ、心に迷いなく、いつか旅立ってみたいものである。

 

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