「しあわせ」の感じ方 [コラムvol.162]

2012.03.16

観光文化事業部 黒須宏志
col-162

概要

 東日本大震災から今月で1年が経過しました。この時期になってようやく震災が社会全体や人々の価値観に与えた影響に関する研究結果や考察が相次いで発表されはじめています。本稿ではその幾つかについて筆者なりの読み解きを試みます。

本文

 昨年、中国・桂林の璃江下りに行った時のことです。下船後、途中離団し、ガイドと徒歩でバスへと向かっていた私は不意に思いがけない人混みにまきこまれました。それも東京の満員電車のように混雑してはいても無言の規律が働いているような状況とは訳が違います。挙動が全く読めない群衆です。ところが人垣をかき分けガイドを見失わないようにと必死に進むうち、にわかに気分が晴れて知覚が鮮明になる、ある種の覚醒感を感じました。声高に話す周囲の人々、少し湿った石畳の匂い、曇った午後の透明な光、袖が触れ合うほど近くにいる人々の息づかい、体温、それらが生々しく迫ってきたのです。それから後は不安感が消え、無規律に並ぶ人々の間を右に左に、まるでゲームを楽しむように抜けていきました。

 人混みから抜けてホッとした瞬間、おやっと気づいたことがありました。それは、「先が読めない状況」に遭遇したことがどうして「楽しい」という気分に結びついたのだろう、という素朴な疑問です。思い返してみるとガイドの後を歩くのは決まったレールの上を進むようなものでした。それが混雑に遭遇、レールから外れたことで、普段はスリープ状態にあるいわば自律(セルフ)装置(ナビゲーション)のようなものが起動したのです。こうしてレールの上を走るような他律的で受け身(パッシブ)な状態から、自分の目で見て判断、行動する自発的(アクティブ)な状態に「身体」と「心」のモードが切り替わり、それが高揚感に結びついたのだと思います。
 脳学者の茂木健一郎氏は『生命と偶有性』(新潮社・2010年)で、生命とは偶然性と規則性が入り交じる混沌とした世界の中で生き残りを賭けた選択を積み重ねてきた存在であり、自由意志を持ち自発的(アクティブ)であることは生命の本源的な性質だとしています。その意味では、「先が読めない」状況に陥った時、モードが受け身(パッシブ)から自発的(アクティブ)に切り替わるのは生命の本能といえ、高揚感を覚えるのもまた生き残りのために生命が採ってきた戦略のひとつなのではないかと思えるのです。

 さて、東日本大震災から今月で1年が経過しましたが、最近、震災後に実施された世論調査の中に震災前と比較した人々の「満足感」や「幸福感」の向上を示唆しているものがあると知って驚きました。
 内閣府が毎年実施している「国民生活に関する世論調査」(2011年は11月に実施)における生活満足感は2009年以降、震災のあった2011年も含め3年連続、上昇しています。データを見て感じるのは、年代や職業といった単純な括りでは説明できない幅広い層で満足感の上昇が起きているということです。これと同様に慶応大学の「東日本大震災に関する特別調査」(2011年6月実施)でも幅広い年代と職業で生活満足度、及び幸福感の上昇が認められています。また内閣府経済社会総合研究所のホームページで公表されている研究試論「東日本大震災直後の若年層の生活行動及び幸福度に対する影響」(実査は2011年3月)にも共通点のある分析結果が提示されています。
 単独の調査結果なら誤認という可能性もあるでしょう。しかし独立した幾つかの調査で共通した結果が出ているという事実は大きいと思います。あれほどの大災害の後になぜこうした心理変化が起きたのでしょうか。
 これに対し既にいわれている仮説のひとつは、人々が被災地の状況に思いを馳せ、相対的に自分は幸せだ、或いは満足だと考えたため、というものです。満足感や幸福感は期待値の高さとの関係で決まる相対的指標と考えられており、その意味で、先の仮説には一定の説得力があります。
 しかし私は、これが間違いとまではいわないまでも、本当の理由はこれではないと考えています。
 それは、震災後、幅広い層の人々の間で旅行に対する意欲が強まっていることを、さまざまな統計や調査データから見てきたところからくる直感です。仮に期待度を下げたことで満足度が上がる、といった後ろ向きの心理が支配的だとすれば、一方で起きている幅広い旅行意欲の高まりの説明がつかないと感じるのです。

 私は、震災を機に、安定志向の強い社会から自発的に変化を求める社会へとモードの切り替えが始まったのではないか、と考えています。私が璃江下りの帰り道で体験したような受け身(パッシブ)から自発的(アクティブ)へのモード転換がもっと大きなスケールで起きつつあるのではないか、という仮説です。
 震災は我々の社会がシールドされた道から外れたという認識をもたらしました。「もう震災前の日本にもどることはできない」。多くの人々がそう感じたはずです。こうした認識が“変化”に対する基本的な姿勢を受け身(パッシブ)から自発的(アクティブ)なものに転換させるきっかけとなり、そうした意識の変化が幅広い生活満足感や幸福感の上昇に結びついたのではないでしょうか。
 一方、市場調査で常に旅行動機のトップになるのは「気分転換」、つまり日常の中に“変化”を求める気持ちです。旅行意欲の高まりは“変化”に対する基本的な姿勢が積極的なものに変化した直接的な証拠ではないかと感じるのです。
 超高齢化の進行、人口減少、産業流出と国際収支の赤字転化、財政状況の急速な悪化、そして忍び寄る次なる災厄の危険。震災後、改めて展望する日本の将来は本当に先が読めません。しかし、だからこそ人々は、来るべき大きな変化、或いは疾うに始まっているその変化をどう受け止めるか、そのための心の準備を無意識に始めているように思えてなりません。

 

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