式年遷宮を間近にした伊勢神宮 ~20年に一度の再生 [コラムvol.152]

<はじめに-「再生」と「循環」の思想>

 三重県へはたびたびお邪魔させていただいているが、以前から気になっていたのが、神聖な場所である伊勢神宮と、あまりに世俗的な周辺観光地とのギャップである。お伊勢参りが盛んだった江戸時代は、もっと落差は大きかったものと思うが、いまだにそうした雰囲気を感じるのは私だけではないだろう。  その伊勢神宮が2013年、62回目の式年遷宮を迎える。伊勢神宮の社殿は、周知の通り、20年毎に造りかえられる。建物だけではなく、場所も隣り合ってはいるものの新しい土地に建てられる。何もかもが新しくなるのが「式年遷宮」である。正式には「神嘗祭(かんなめさい)の夜に、ご神体を新宮へお遷しする遷御の儀」のことで、新しい神が新しく祀られる「再生」の思想、心の御柱を新しくする、いわばリセットの儀式である。まだ使えるのにもったいないと感じるかも知れないが、古くなった社殿の木材は、全国の神社で再び利用されるリサイクル(循環)の思想をも見ることが出来る。  既に2005年から御木曳(おきひき)行事や宇治橋の掛け替えなど公式の祭典や行事が着々と進んでいる。興味深いのは三重県各地で、式年遷宮をきっかけとして何かを変えよう、それまでに何かを成し遂げよう、それ以降こう変わろうという社会や地域の大きな節目の年として認識していることである。2013年の前後を計画の目標年次として設定されているケースも少なくない。無意識のうちに自らの人生の節目としても位置づけているような気がする。  ここでは、三重県民にとって特別な存在である伊勢神宮と式年遷宮について紹介したい。

<これまでとは異なる入込パターン?>

 「式年」とは「定められた期限のこと」で、式年制は伊勢神宮だけでなく、摂津の住吉大社、下総の香取神宮、常陸の鹿嶋神宮などにも伝わっており、7年に一度の諏訪・御柱祭などもその名残と言われている。  図-1は伊勢神宮の参拝者の推移であり、明治時代から(恐らくもっと以前から)統計を取っていることに感銘を受ける。式年遷宮は、太平洋戦争の関係で実施年がずれたことがあるものの、戦国時代などを除き、ほぼ20年に一度行われている。太平洋戦争前から国家神道が強くなっていくとともに参拝客が増え、戦後は激減したものの、昭和30年代以降また増加している。  江戸時代はほぼ60年に一度「おかげ参り」が流行したと言われているが、明治時代は、式年遷宮の年であってもそれほど入込は増えておらず、“黙っていてもお客さんが増える”というのは、実は戦後の2回-昭和48年、平成5年-が特徴的であり、旅行雑誌やマスコミの影響を大きく受けたことによる。  ただ、今度の2013年第62回式年遷宮は、過去2回の入込傾向とは明らかに異なっている。過去2回は式年遷宮の年になるといきなり参拝客が増え、翌年は激減するというパターンであったが、今回は式年遷宮の5年ほど前から徐々に参拝客が増えている。パワースポットやスピリチュアルブームということで、特に女性を中心とした参拝客が増加しているからと言われているが、私はそれだけではなく、三重県観光関係者の地道で熱心な取り組みのおかげであると理解している。蛇足ながら2004年度に当財団が三重県からの委託を受けて観光振興プラン策定のお手伝いをしたが、多少その成果も現れているとも言えるかも知れない。

<内宮(ないくう)と外宮(げくう)の違いは?>

 現在では圧倒的に内宮の参拝客が多くなっているが、以前は外宮の方が多かった。外宮先祭と言って、先に外宮をお参りしてから内宮へという参拝の順番があった。かつては、伊勢市駅から至近な外宮を参拝し、外宮からは路面電車で内宮へ。両方を参拝することが容易であった。昭和36年に路面電車が廃止となって以降は、時間短縮のためか、内宮だけを参拝するお客さんが増えてしまった。  もともと伊勢神宮は、皇大神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)の二つの正宮だけでなく、別宮、摂社、末社、所管社の125ものお宮お社の総称である。鎮座については諸説あるようだが、内宮は3世紀末から4世紀初頭、垂仁天皇の頃、外宮は5世紀後半と約200年の差があるらしい。当時、大和朝廷が内宮、外宮の二宮制を公に認めた背景には、 ・唯一無二の太陽神・天照大神を皇祖神とした天皇の絶対化(天皇制の確立)=内宮、 ・稲作を基盤とした民族としての統一(稲作農業による全国統一)=外宮 という異なる役割を担わせたことによるとも言われている。  外宮の豊受大神は、内宮に祀られる天照大神の食事を司る神として丹波の国から等由気大神を遷したものと言われており、現在でも食事は外宮で作られ、内宮に運ばれているとのことである。

<なぜ、20年毎なのか?>

 伊勢神宮は、「唯一神明造り」と言われる、大地にじかに柱を立てて造る建築様式である。総檜造り、茅葺きの堀立式の高床の建物、太い棟持(むなもち)柱が壁から離れて両側面に立っている切妻造、平入りの建築物である。  式年遷宮は、685年(天武天皇14年)に決定され、690年に内宮、692年に外宮で行われた。20年毎に建て替えるのは、物理的に柱が腐ってしまうということや、建築技術や祭事を後世に伝承する限界の年数であるといった諸説あるが、稲を基軸とする穀物の生産と備蓄の文化を制度化し、最長備蓄物-飯を乾した「糒(ほしい)」や「乾飯(かれい)」-の更新年を20年としたことに由来しているのではないかという説に私は共感している。  室町時代以降、伊勢神宮の経済基盤が崩壊し、式年遷宮は1434年に外宮、1462年に内宮が途絶え、応仁の乱を経て戦国時代まで続いた。その後、御師(おんし)の活躍や豊臣秀吉の寄進もあり1585年に内宮・外宮ともに復活した。なお、式年遷宮は、二つの正宮のみならず、14の別宮でも行われている。

<おわりに>

 お伊勢参りは、日本人の旅の原点とも言われるように、現代の日本人の旅にも大きな影響を及ぼしている。熊野詣の集団巡礼から繋がる団体旅行という旅の形態や伊勢信仰を地方に伝える営業マンとしての御師の役割、信者全員の伊勢参拝を可能とする伊勢講というシステム、日本版グランドツアーとも言える若者の代参講などである。熊野詣と同様、浄、不浄を問わず、女性の参拝が出来たこともお伊勢参りの対象領域を広げた要因の一つである。  伊勢が常世の聖地であり、最先端の流行発信地であったことを振り返りつつ、三重県民の精神的な支柱とも言える伊勢神宮と三重県の観光・・・歴史、文化、風土などについてさらに学んで行きたいと考えている。  2011年9月の台風12号による大雨により、三重県南部の東紀州地域が大きな被害を受けました。この場を借りて心よりお見舞い申し上げます。

掛け替え中の宇治橋(2009.7)
掛け替え中の宇治橋(2009.7)
女性客で賑わうお払い町
女性客で賑わうお払い町

 

図-1 伊勢神宮参拝客の推移  ※クリックすると拡大図を表示します
伊勢神宮参拝客の推移
出典:三重県
参考文献:
  • 旅の民俗と歴史 5 『伊勢参宮』 宮本常一編著 八坂書房
  • 『伊勢神宮のこころ、式年遷宮の意味』 小堀邦夫 淡交社
  • 文春新書 『伊勢詣と江戸の旅』 金森敦子 文藝春秋
  • 新潮新書 『伊勢発見』 立松和平 新潮社
  • 岩波新書 『江戸の旅文化』 神崎宣武 岩波書店