「笑い」こそ観光の本願!? [コラムvol.137]

2011.03.04

観光文化事業部 黒須宏志
col-137

概要

 最近、観光の現場でユーモアや笑いをうまく利用した例が増えてきているようだ。それらは、一見、ただのウケ狙いやエンターテイメントだが、実はそこに「観光とはこういうもの」という型に嵌った価値観へのオブジェクションという、秘められた、そしておそらくは意図せざる社会的メッセージを読み解くことができるように思われる。

本文

 みなさんは「名古屋おもてなし武将隊」をご存じだろうか?
 メンバーは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、誰もが知っている戦国武将たちだ。この「武将隊」の面白さは“なりきり”から来ている。つまり織田信長に扮しているのは○○さんだ、という部分をかなぐり捨てて、信長、秀吉本人になりきっているのである。実は私がこの「武将隊」のことを知ったのは去年(2010年)の秋に放送されたNHKのクイズ番組を見た時なのだが、この時も出演した豊臣秀吉(本人)はタメ口の質問にいきなり「これこれその方、わしに対してそのような口のきき方をしてはらなん」と切り返し、年齢を聞かれると「わしか、わしは今年で473歳になるの」などと答えていた(笑)。聞けばこの「戦国隊」は名古屋開府400年を記念して結成されたということで、別名「イケメン武将隊」とも呼ばれ、追っかけファンが出るほどの人気ぶりだという。名古屋城に行けば会えるということなので、小職も名古屋方面に行く折があれば是非とも「尊顔を拝し」たいものだと思っている。

 さて、このところ観光の現場でこうしたユーモアや笑いをうまく利用した例が増えてきているような気がするのだが、これには何かわけがあるのだろうか。表面的には笑いを誘うことで注目を引きつけ、エンターテイメントを提供することが狙いのように見えるのだが、果たしてそれだけなのだろうか。
 そもそも「笑い」とは一体何なのだろう。カントは「笑いは突然無に帰した予期」と述べたという。その意味はおおよそこういうことらしい。人はさまざまなものごとに対し「これはこうであろう」という予見を持って生きている。「武将隊」の例でいうなら「彼は秀吉に扮した人だ、質問に応える時は“扮した人”として受け答えするだろう」という予想をする。笑いはその予期が見事に裏切られたことで生まれるのである。
 人間は生きて行く上で有用な様々な知識を持ち、状況の変化に即応するために常に少し先を読みながら、つまり「予期」しながら生きている。その働きは日々の営みや経済活動などをスムーズに運ぶのに役立っているが、一旦それが行き過ぎると「予期」は「思いこみ」と化してしまう。これは別に珍しいことではなく、むしろ、世の中はさまざまな「思いこみ」で溢れている、と云った方がいいくらいではないかと思う。そしてその「思いこみ」を中和する働きをするのが「笑い」である。「思いこみ」の程度が強ければ強いほど、誤りに気付いた時の笑いは大きくなる。注がれていたエネルギーが行き場を失って笑いとして吹き出すのである。逆にいえば、私たちは笑うことができるから、固定観念の呪縛から解き放たれ自由な心を取り戻せる、といえるだろう。このように「笑い」とは、ひとつの見方に囚われず、多様な価値観の間を行き来することを可能にする力であり、矛盾に満ちた現実を生きていく上で欠かせない術なのである。

 ところで、もし、あなたが1週間の休暇を取ってこれから旅行に出かけるという矢先にフライトがキャンセルになったとしたら一体どうするだろうか?そのフライト以外では目的地に行くことができず、フライトは1週間に1本しかない、と仮定しよう。
 多分、圧倒的多数の人が、理不尽なできごとに強い焦燥感を感じ、なんとか埋め合わせの方法を探そうとするだろう。航空機など運輸機関のダイヤが大幅に乱れた際のニュースで繰り返し流れるのは、この手の反応である。
 ところが、このような状況にはもうひとつ全く別の、しかも完璧なる対応策がある。それは「これはもう笑うしかない!」と云い放って爆笑し、頭を切り替えることだ。「自分は予定した旅行に行きたい!!行かねばならないのだ」という圧倒的に強い気持ち(つまりは「思いこみ」)を笑うことで一度リセットし、それによって「この旅行は確かに素敵なプランだったけど、休暇の素晴らしい過ごし方は決してそれひとつじゃなかったなあ」という、一瞬前までは想像すらできなかった別の考えを受け入れることができるようになるのである。
 私の感じでは、自分を含め、日本人にはどうも前者「イライラ」のパターンにはまりやすい傾向があるような気がする。1週間の休暇がフイになるような状況を笑い飛ばせるのは相当の達人でないと無理かもしれないが、やれ電車が遅れた、仲居の対応が悪いなどと、笑えば笑って済ませられるようなことにまで目くじらを立てることが多いのではないか。生真面目、というより、「旅行」に対してまでも、型に縛られ過ぎているような感じがする。

 人間は笑うことで相克する現実を、分裂的にではなく、包含的に受け入れることができる。ひとつのパラダイムと相反する別のパラダイムとは「論理的には不整合」で繋がらない。だから「笑い」が必要なのだ。「笑い」は一旦全ての価値判断をリセットし、異質なものを異質なままに受容するニュートラルな心を準備する。
 もしそうだとすれば「笑い」こそ、観光に係わる者にとって「本願」とでも呼ぶべきものではなかろうか。何らかの価値のギャップがあるからこそ観光は面白い。それをビジターが、頭脳ではなく、心で受け入れることこそが、最終的な到達点ではないか。私はこのあたりが観光の現場でユーモアや笑いをうまく利用する例が増えてきたことの真の意味なのではないかと感じている。
 我々は観光をマジメにやり過ぎているのではあるまいか。そう無意識に感じた人々が、ひとつ間違えば“何でそんなばからしいことを”と揶揄されかねないような挙動にまで打って出て、人を笑わせ、“一緒に楽しもうよ”とメッセージを送っているように思える。
 そう考えると、B級グルメがジョークの殿堂であるのは、彼らが“正統な”観光資源に対するアンチテーゼだからなのではないかと思う。観光とはこういうものだ、という「思いこみ」を一旦リセットしてやることで、素直にやきそばが楽しめる。今日的な観光の情景の中にあってやや異彩を放つB級グルメがジョークと一心同体なのも、この辺りに理由がありそうだ。

※本稿の笑いの本性に関する考察は社会学者である木村洋二氏の笑いに関する著作『笑いを科学する』(新曜社2010年)『笑いの社会学』(世界思想社1983年)などを参考としたものです。
※「名古屋おもてなし武将隊」URL:http://ameblo.jp/busho-tai/

 

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