誰もが旅行を楽しめるために [コラムvol.488]

昨今は多様性を尊重するという概念が広く浸透しつつあります。観光の分野では海外では誰もが旅行を楽しめるためのツーリズムとして「インクルーシブツーリズム」という概念で取り組まれています。国内に目を向けると、日本では「ユニバーサルツーリズム」や「バリアフリーツーリズム」として、宿泊施設や公共交通機関などのバリアフリー化が行われるなど受入環境整備を中心に取り組まれてきました。

その一方で、事業の対象は主として高齢者や障害者に焦点が当てられてきたことから、私たちは冒頭で触れた多様性を尊重する価値観に合わせた新たなツーリズムのあり方を模索する必要があると考え、2021年度に自主研究として「多様性を持つ新たなツーリズムのあり方についての研究」を企画・実施しました。共同研究者の菅野は「観光の受け入れにおける性の多様性」をテーマとして、私は慢性疾患を持つ患者への対応を対象に研究を進めてきました。研究の概要は機関誌「観光文化」第252号 特集4で紹介しています。

慢性疾患を持つ人がレジャー目的で楽しむツーリズムはどのカテゴリーに分類されるのか

慢性疾患を持つ患者を対象とした理由のひとつに患者数の増加が挙げられます。高血圧、糖尿病、がんといった慢性疾患を持つ患者の数は過去10年以上にわたり増加傾向にあります(図1)。高齢化が影響しているということもありますが、がん患者については勤労世代である64歳以下が100万人、患者全体の約3割を占めており、必ずしも高齢者ばかりの疾患ではないことがわかります(図2)。

図1 傷病別患者数推移 図2 がん患者数(2020-24推計値、単位:万人)
出所:厚生労働省「患者調査(2017年)」 出所:平成28年度科学研究費補助金基盤研究(B)(一般)
日本人におけるがんの原因・寄与度:最新推計と将来予測
国立がん研究センターがん情報サービス「がん登録・統計」

 

慢性疾患はその名のとおり、病気と長く付き合っていくことが特徴です。がんの場合、治療期間は1年以上かかることも少なくありません。また、がん患者の方は、症状・副作用・後遺症のほか、再発・転移の不安などこころの悩みを抱えて日々を過ごしていることも調査で明らかになっています(図3)。

図 3 がん患者が体験した悩みの実態

出所:厚生労働省「がんの社会学」に関する研究グループ「2013がん体験者の悩みや負担等に関する実態調査報告書」(2013年)をもとに筆者作成

 

海外では、がん患者が旅行をすることで心身によい影響があるという研究結果が報告されています。旅行やアクティビティを行うことで、病気のことをしばし忘れてリフレッシュしたり、家族や友人と親睦を深めたりと様々な効果があるといわれています。一方で、国内ではこうした疾患を持つ人の旅行については十分に研究が進んでいないのが現状です。
冒頭で触れたとおり、国内では「ユニバーサルツーリズム」や「バリアフリーツーリズム」として長年取り組みが行われてきました。観光庁は2011年度から「ユニバーサルツーリズム促進事業」を展開、同事業で取りまとめられた接遇マニュアルによると、障害の種別として「内部障害・難病・慢性疾患」が含まれているものの、事業の対象としては高齢者と障害者が中心となっていました。

また、健康や医療に関連したツーリズムとしては「ヘルスツーリズム」「ウェルネスツーリズム」「メディカルツーリズム」などがあります。羽生正宗は『ヘルスツーリズム概論: 観光立国推進戦略』1)の中で、“ヘルスツーリズムについてまず、旅行者が病気であるか、そうでないかで大きく分けることができる。旅行者が病気であれば、そのケアをする人は、医療専門家ということになり、メディカルという概念に相当するため、旅行者が病気の場合のツーリズムを「メディカルツーリズム」と称することができるであろう。”と述べています。ヘルスツーリズムにはレジャー目的も含まれてはいるものの、あくまでメインの対象は治療や療養、健康増進など健康を動機とした旅行とされています。

このように、慢性疾患を持つ患者が健康を動機とせずに一般的な楽しみを目的とした旅行についてはほとんど考えられてきていないのが実情です。それは私自身の経験からも実感したことでした。

疾病を持つ人が旅行するための情報提供が少ない現状

2020年に私は病気を患い、約1年にわたって治療を受けることになりました。ちょうど新型コロナウイルス感染症が蔓延していた上にワクチン接種が始まる前でしたので旅行には行けるような状況でなかったのですが、せめて趣味である山歩きがしたい、高尾山くらいであれば行けるかもと考えて、まずはインターネットで情報収集をすることにしました。

しかし、治療中の山歩きについて検索してもなかなか有益な情報は出てきません。そこで、治療を受けに行った際に看護師に山に行きたいと相談したところ、インターネットには載っていなかった具体的で役に立つアドバイスをくださいました。さらに主治医にも話した上で高尾山訪問は実現しました。

また、治療が終わった後にある知人からダイビングに行こうと誘ってもらい治療中から情報収集を始めたのですが、こちらはさらに情報が見つかりません。手探りの状態で主治医や治療を受けた医師を回って一から確認する作業はなかなか煩雑でした。実際は治療の副作用が出なければダイビングを行うことは問題ないということで、検査の結果問題がないことを確認したのちに診断書をもらい、無事ダイビング旅行に出発することができました。

インターネットで検索しても情報が出てこないということは、同じ経験をした人がいかに少ないかということを意味しています。つまり、多くの人が治療中や治療直後の旅行やアクティビティは躊躇して控えてしまっているということです。

治療中でも可能な範囲で体を動かすことが推奨される?最新の研究で常識が変化

おそらくこうした情報の少なさの背景には、これまで疾病を持つ患者は、治療中はなるべく安静にと考えられてきたことがあるのではないかと思われます。

しかし、最近の研究ではむしろ適度な運動は患者の心身によい効果をもたらすことが明らかになってきました(もちろん疾病の種類や病状によります)。世界保健機関(WHO)は2020年11月に「運動・身体活動および座位行動に関するガイドライン」を発表、同ガイドラインでは子供と青少年、成人、高齢者のほか、妊娠中および産後の女性、慢性疾患を有する人、障害者に向けて具体的な運動目標を示しています。(日本語翻訳版が日本運動疫学会のサイト(外部リンク)で公開されています)

こうした動きは最近のことですので、治療中の患者が体を動かすことに関する情報がまだ少ないのではないかと思われます。私のように実際にやってみた人の情報や医療関係者が発信する情報が見つからなければできないと思いこみ、旅行やアクティビティをためらってしまうのではないかと思います。そのためには、まずは正しい情報発信に取り組んでいくことが必要だと感じます。

まとめ

治療期間中に登った高尾山は体力が落ちていることもあってとにかくきつかったですが、一歩一歩を踏み出すことにただ集中し、しばし病気のことを忘れられる貴重な時間をもたらしてくれました。また、山頂に立った時の達成感はひとしおで、きつい治療を受けている時にこそこうした喜びが必要だと実感しました。また、治療を終えたあとのダイビングで潜った海の美しさ、潜れたことによる達成感は、治療を終えて再び日常生活を歩き出す私の背中を押してくれました。

旅行・観光を専門に研究する立場として、私は旅行やアクティビティをためらう人が安心して旅行を楽しめるための環境づくりに取り組み、一人でも多くの人に旅行やアクティビティの体験がもたらす感動や喜びを味わってもらいたいと思います。

参考文献

  • 1)羽生正宗(2011)『ヘルスツーリズム概論 : 観光立国推進戦略』、日本評論社