文化行政の「大きな転換点」に立ち会って
2015年、私は東京国立博物館で第1回認定証交付式の式典運営のお手伝いをさせて頂きました。日本遺産誕生の瞬間に立ち会えたことはとても素晴らしい経験であったと思います。誕生したばかりのこの日本遺産は、まだ誰にも知られていない「手探りの手作りの状態」であったように思います。日本遺産は制度ができて10年の節目となりました。とても感慨深いものです。
当時の日本は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックという「スポーツと文化の祭典」を見据え、国を挙げて観光立国への歩みを加速させていました。その潮流の中で誕生した日本遺産は、従来の文化財保護法に基づく「点」の保存という規制主導の枠組みを大きく修正し、地域の歴史や伝統を「ストーリー」としてパッケージ化し、一括して「面」で活用するという当時としては画期的な挑戦でした。
制度開始から10年。日本遺産は認定数が104件に達し、成熟期を迎えているように思います。その一方で、私はいまだに地方の現場で、観光による一方的な地域活性化を真っすぐに訴える観光課などの行政担当者に対し、文化財の担い手たちが浮かべる、どこか複雑な「苦笑い」を目にします。

「観光のための文化」から「文化のための観光」へ
もちろん、この10年で状況は確実に前進しました。2018年の文化財保護法改正により「活用」に係る予算配分が手厚くなり、また、日本遺産等に関わる理解も広がってきたことで、かつてのような「保存か、活用か」というゼロサムの極端な二項対立ではなく、双方の重要性を理解する関係者は増えています。
しかし、現場では今、新たな形の「苦笑い」も生まれています。それは、急激に増加するインバウンド需要への対応に追われ、本来守るべき真正性が揺るぎ始めていることへの戸惑いです。また、高付加価値化の名のもとに、観光のために文化財を「利用」する流れも増えてきているのではないかと思います。日本政府が2030年に掲げる訪日客6,000万人という目標が現実味を帯びる中で、ある担い手の方は「観光客が増えるのは嬉しい。しかし、私たちが守ってきた歴史や伝統が、表面的な『見せ物』になっていないか不安」と話していました。
ここで私たちは、原点に立ち返る必要があるのではないかと思います。日本遺産が目指したのは、観光のために文化を「消費」することだったのでしょうか。それとも、貴重な文化財を次世代へ継承するために、観光を「手段」として使いこなすことだったのでしょうか。特に人口減少が加速する地方においては、この問いはますます重みを増しているのではないでしょうか。

デヴィッド・スロスビーが説く「文化資本」という視点
この問いに対し、文化経済学が専門のデヴィッド・スロスビー氏が提唱する「文化資本(Cultural Capital)」の概念は、とても参考になると思います。スロスビー氏は、文化遺産を単なる観光資源ではなく、将来にわたって感動や知恵という「利息」を生み続ける「資本」であると定義しました。
スロスビーの理論の核心は、目に見える「経済的価値」は、目に見えない「文化的価値(真正性や社会的価値)」という土台に支えられているという点にあります。例えば、評価指標としての「入込客数」や「消費額」という数字を追うあまり、土台である文化の真正性が損なわれてしまえば、結果として文化資本そのものが目減りし、長期的には観光地としての魅力も経済的価値も失われてしまいます。
日本遺産の制度ができて10年。私たちが目を向けるべきことは、日本遺産のストーリー及び構成文化財を「資本」として適切に運用し、その価値を高めるための「投資」を行っているかという点です。単なる切り売りによる「消費」で終わらせないためには、どのような仕組みが地域に必要なのか、地域全体で考えていく必要があるのではないかと思います。
継承をシステム化する:タイ・DASTAの挑戦
文化資本を「消費」せず、いかに「運用」して次世代へ繋ぐか。先日、私がタイを視察調査した際に興味深い事例がありました。それはタイの政府機関DASTA(Designated Areas for Sustainable Tourism Administration)の取り組みです。彼らは自らを「システム・インテグレーター」と定義し、単に補助金を配るのではなく、地域が自立して文化を守るための「漁の仕組み」を地域の担い手と共に設計しています。
象徴的なのは、その評価指標です。彼らは単なる入込客数でだけではなく、「収入分配指数」を重視します。観光収益が特定の個人に偏らず、地域内で公平に分散されているか、そしてその一部が例えば、次世代を担う子供たちの学費や文化保存基金に還元されることを重視していました。加えて、一度途絶えたペッチャブリーの「ナン・ヤイ(伝統影絵劇)」を「観光を手段」として活用して、復活させるという、私の立場として考えられないような取り組みも成功させていました。観光客からの称賛が子供たちの誇りを育み、さらに経済的な裏付けが「学びのインセンティブ」として機能する、継承の好循環をDASTAの職員が地域に入り共にデザイン(仕組み作り)しており、とても感銘を受けました。
折しも、日本遺産審査・評価委員会が発表した最新の指針では、日本遺産の目的として「収益が文化・伝統の保存・継承に還元されること」が改めて明記されました。さらに、今後の評価指標例として「事業収益のうち文化資源の保存活用に再投資する金額」という項目も導入されています。
これは、私がDASTAで見聞きした「分配と還元の仕組み」が、日本遺産制度においても本質的な課題として示されたことを意味します。これまで重視されてきた「入込客数」「消費額」という結果だけではなく、その収益を次世代や文化保存にどう繋ぐかという「継承の装置」としての仕組み作りが、今まさに求められているのです。
2035年の日本遺産:苦笑いを「共感」に変えるために
日本遺産が認定から20周年を迎える2035年。その時、地域の日本遺産ストーリー、構成文化財はどのようになっているのでしょうか。
文化庁の指針では、短期的に目指すべき自立・自走の姿として、地域経済や住民生活への貢献を可視化し、事業者からの支援を得て継続する仕組みの構築が示されました。この具体策として、例えば文化庁が進める「日本遺産オフィシャルパートナーシッププログラム」を各地域が「地域版」として独自に展開し、民間企業との連携による収益を直接的に担い手や祭りの基金へ還流させるような、官民連携の新しい仕組み作りなどが期待されます 。
もし私たちが今のまま、目に見える数字だけを追い続ければ、2035年、担い手不足のなかで形骸化したストーリーだけが残されているかもしれません。しかし今、私たちが日本遺産を「活用によって価値を高めるべき資本」として捉え直し、「保存と還元の好循環」を各地で仕組み化することができれば、未来は大きく変わっていくのではないかと思います。
観光客は単なる「お金」ではなく、文化の「理解者」かつ「支援者」となり、その対価は直接的にも地域の未来へと還流されます。2035年、次の日本遺産の10年へ。観光が果たすべき役割は大きいのではないかと思います。

画像提供:沖縄県文化振興課
【参考】
- 文化庁「日本遺産(Japan Heritage)」ポータルサイト
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/(最終アクセス:2026年2月23日) - 文化庁「日本遺産認定地域の今後の審査について」(日本遺産審査・評価委員会、令和6年1月)
- 文化庁「令和8年度以降の総括評価・継続審査にあたっての地域活性化計画等の改善について」(日本遺産審査・評価委員会、令和8年2月)
- Throsby, David (1999) “Cultural Capital”, Journal of Cultural Economics, Vol. 23
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DASTA(Designated Areas for Sustainable Tourism Administration)公式サイト
https://www.dasta.or.th/(最終アクセス:2026年2月23日)


