木下淑夫と日本の観光政策 [コラムvol.380]

2018.10.09

観光文化情報センター 主任研究員 福永香織

 1978年に「観光文化資料館」として誕生した旅の図書館(1999年に現在の名称に改称)は2018年10月で開設40周年を迎えます。開設以来、ガイドブック、機内誌、時刻表、統計資料といった観光関連の図書や資料を収集していますが、コレクションの一つに「木下文庫」があります。これは1912年に設立されたジャパン・ツーリスト・ビューロー(当財団の前身(注1)。以下、ビューロー)生みの親である木下淑夫(1874年~1923年)の蔵書を中心に構成された文庫であり、1929(昭和4)年の木下の7回忌に有志によって設立されたものです。

 木下文庫には木下が海外留学中に収集した蔵書に加え、有志から寄贈された書籍も登録されています。全体で数千冊はあったのではないかと考えられますが、残念ながら太平洋戦争で散逸し、当館には90冊ほどが残るのみとなっています。

 木下淑夫は日本の鉄道の近代化に大きく寄与した人物として知られていますが、観光面での業績についてはほとんど研究されていません。特にビューロー生みの親と聞くと、旅行業のイメージを持たれる方も多いかと思いますが、どちらかというと日本の観光政策の礎を築いたと言った方が適切かもしれません。

 そこで今回は、観光関連の木下淑夫の功績を紹介したいと思います。

木下淑夫の一生と既往研究

 1874(明治7)年に京都府久美浜町(現・京丹後市)に生まれ、大学では土木工学、大学院では法律と経済を専攻した木下は、明治32年に逓信省鉄道作業局に入局しました。非常に研究熱心で、海外留学や海外で開催された鉄道連絡会議への出席などを経験し、国際感覚を養うとともに、先進的な各国の鉄道・観光事情を肌で感じていました。鉄道事業の功績としては、主に旅客貨物の運輸規定の改正、国鉄での食堂車の開始、定期回数券の大衆化、汽車時間表の統制、特急列車や廻遊列車の運行などが知られていますが、鉄道に限らず、航空機や自動車輸送の研究・提言もおこなっています。

 大正7年にはシベリア出張を契機に健康を害し、それと同時に木下の存在を疎ましく思っていた石丸重美副総裁により中部鉄道管理局長に左遷されます。ついには大正9年には休職、その3年後には49歳という短い生涯を終えました。

 木下の取り組みや思想はビューローの機関誌である「ツーリスト」をはじめ、「鉄道時報」「太陽」といった雑誌等への投稿からうかがえるほか、退職後にまとめた主要論文を採録した『国有鉄道の将来』、主に鉄道の側面から彼の実績をまとめた伝記『国鉄興隆時代』、ビューロー創立25年の節目にまとめられた『回顧録』、日本交通公社の社史である『四拾年のあゆみ』『50年史』『70年史』、東京日日新聞記者であった青木槐三がまとめた『この人々』などがありますが、観光関連事業に注目した研究は「木下淑夫の国立公園への影響」(伊藤太一,1998)の他、旅行案内書の観点から木下の功績に着目した「英文日本旅行案内書の系譜」(中川浩一,1975年)などの他にはほとんどありません。

  

表1 木下淑夫経歴

『故木下淑夫君年譜』『回顧録』『国鉄興隆時代 木下運輸二十年』を元に筆者作成

ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立の背景と経緯

 1904(明治37)年、鉄道ホテル、鉄道付帯施設の経営方法、鉄道運賃、食堂車等の研究を目的に木下は自費でアメリカに留学しました。その後、鉄道で初めての公費留学に切り替えられ、アメリカ、イギリス、ドイツに2年間留学しましたが、諸外国から日本は「文化度の低い一小国」として見られる現状にひどく落胆しました。多くの外国人に日本を理解してもらうためには実際に日本に来てもらうことが一番と考え、外客誘致を担う組織の必要性を認識しました。帰国後、帝国ホテル支配人の林愛作や日本郵船専務兼営業部長の林民雄などとともに外客誘致の必要性を説いてまわり、鉄道庁総裁の平井晴二郎や白石元治郎(東洋汽船)、渋沢栄一などの賛同を得て外客誘致の気運を醸成しました。

 当時、日本を訪れた外国人の便宜をはかる組織として、益田孝らによって設立された喜賓会がありましたが、中心的活動者を欠き、会務に力を注ぐことが困難な事情にあった同会としては、別途機関の新設を望んでいた矢先でもありました。

明治45年1月、平井と共に、当時の内務大臣であり鉄道院総裁となった原敬にビューロー設立の趣旨、外客誘致の必要性、外貨獲得の利益、国際親善の増進について述べ、資金の提供を訴えました。原は「それはよい計画である。資金2万5千円はすぐに出しましょう。足りなければもっと出しましょう。大いにやって下さい。ただ、この事業は真に適任者がその任に永く当たらなければいけない」と賛同し、ビューローの設立が決まりました。同年3月、平井を会長、フランスから帰国した生野團六を監事とし、12名の発起人と鉄道、汽船、ホテルなどの代表55名の参加者をもって設立総会が開催されました。(ビューローの名称や会則修正、支部・案内所の設置、事業計画は第1回理事会で決定)

 一方で、ビューロー設立当時は外客誘致の考え方は十分に理解されないことも多く、ビューロー設立において、鉄道院がリーダーとなっていくためには、まず鉄道員の理解と協力を得ることが重要と考え、「「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」設立に就て鉄道従事員に望む」という一文を発表しています(注2)。また、ビューロー設立後、自身は常務理事となりますが、一切の業務を生野團六に託し、鉄道院の立場から改革をおこなうことになります。

観光関連の功績と木下の思想

国立公園調査の着手

 アメリカ留学中に国立公園の必要性を認識していた木下は、1913(大正2)年には中谷義一郎に富士山一帯を、その後、日光、日本アルプス、十和田湖などを調査させました。1916(大正5)年に経済調査会の幹事になると、国立公園制定運動を公式に提言。国内の観光地と国立公園を結びつけ、国民保健と外客廻遊の便をはかるというのが木下の構想でした。その後、国立公園の指定が実現したのは1934(昭和9)年のことでした。

An Official Guide to Eastern Asia(全5巻)の発刊

 英語やフランス語で書かれた日本の案内書がないことにも危機感を覚えていた木下は、来遊の外客のために日本のみならず朝鮮や南洋など東亜圏内を案内するAn Official Guide to Eastern Asia(全5巻)を発刊しました。地図や写真が多数掲載され、詳細な解説が付された同書は、当時最も評価の高かったドイツ・ベデカー社の旅行案内書になぞらえ、“日本版ベデカー”と評されました。

ジャパン・ホテルの建設構想

 近年、外国人観光客増加によるホテル不足やオーバーツーリズムの問題などが注目されていますが、明治から大正にかけて急激に外客が増加した時期が、日露戦争の直後と大正6年の2回あったとされています(注3)。いずれも外客の増加によりホテル不足が顕著となり、ついにはカナダ太平洋汽船横浜代理店支配人のエドワード・ストーン氏とトーマス・クック社東洋総支配人のグリーン氏によりビューロー宛にホテル不足を解決するよう書簡が寄せられるまでとなりました。大正8年、木下が主体となって鉄道省、日本郵船、東洋汽船、大阪商船などの有志が発起となって東京駅前に千室を有する「ジャパン・ホテル」を建設しビューローが経営する計画を立てますが、財界恐慌のため計画は頓挫しました。

「外客誘致に関する具体案」を建言

 大正5年に大隈内閣の諮問機関である「経済調査会」監事になると、政府内に外客誘致調査機関を設置し、外客誘致に関する国策の確立とともに、交通、公園、道路、ホテルガイド等、必要な施設を整備すべきとする「外客誘致に関する具体案」を建言しましたが、大隈内閣の解散とともに流産に終わりました。その後、こうした木下の動きと連動してか、ビューローの理事会でも国策機関の必要性が議論されていた他、外客の増加に刺激された衆議院が昭和4年に外客誘致、接遇方策の確立と実行を促した建議書を提出(可決成立)し、その中の「外客誘致二関スル施設ノ統一、連絡及促進を図ル官設ノ中央機関」として昭和5年に設置されたのが国際観光局です。一方、ビューローは国際観光局との役割分担の元、外客の斡旋など現場の仕事をする機関として発展していくこととなります。

木下から学ぶ研究と実践の両立

 木下は惜しまれつつも短い人生を終えますが、彼の影響を受けた生野團六、中谷義一郎、山中忠雄、高久甚之助、猪俣忠次、大蔵公望など多くの後輩たちが日本の鉄道・観光政策を担っていくことになります。木下は鉄道生活約20年間で100本以上の大小論文を執筆・発表しつつ国境を越えた広い視野で観光や鉄道の発展に寄与しますが、木下の思想や影響力、死後に設置された木下文庫など、十分に明らかにされていないことも多く、今後の研究課題であるといえます。

 大震災や度重なる戦争や恐慌の影響を受けながらも数々の改革を実行した背景には、自国にプライドを持ちつつも先進的な海外各国の取り組みをバランス良く取り入れる国際感覚と、利用者本位で考える謙虚な姿勢、あくなき研究精神とそれを実現していく実行力がありました。

 今回紹介した木下淑夫の功績と木下文庫については、当館1階の古書展示ギャラリーで展示(2018年10月~12月)していますので、ご来館の際にぜひご覧下さい。

(注1)1912年に「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」として創業し、1945(昭和20年)に「財団法人日本交通公社」と名称を変えました。その後1963(昭和38)年に営業部門を「株式会社日本交通公社(現 株式会社JTB)」として分離し、当財団は観光を専門とする調査研究機関となり現在に至ります。
(注2)『国鉄興隆時代 木下運輸二十年』日本交通協会,日本交通協会, 1957年、P274~
(注3)大正6年時点でホテル数が66(収容可能人員3,958人)だったのに対し、外客数は28,425人だった。『回顧録』p160-p162より

参考資料

  • 「ツーリスト」ジャパン・ツーリスト・ビューロー,1913年創刊(当館にてデジタルコレクションとして閲覧可)
  • AN OFFICIAL GUIDE TO EASTERN ASIA VOL.Ⅰ.~VOL.Ⅴ,鉄道院,1913年
  • 『国有鉄道の将来』木下淑夫,鉄道時報局1924年
  • 『回顧録』Japan Tourist Bureau, Japan Tourist Bureau,1937
  • 『故木下淑夫君年譜』ジャパン・ツーリスト・ビューロー(日本旅行協會),木下文庫, 1939年
  • 『国鉄興隆時代 木下運輸二十年』日本交通協会,日本交通協会, 1957年
  • 『四拾年の歩み 1912-1952』(財)日本交通公社、(財)日本交通公社, 1952年
  • 『日本交通公社五十年史』日本交通公社、日本交通公社, 1962年
  • 『日本交通公社七十年史』日本交通公社、日本交通公社, 1982年
  • 『この人々』青木槐三 編、日本交通公社、1962年
  • 「英文日本旅行案内書の系譜」中川浩一、地図13巻4号 p8-15,1975年
  • 『旅行ノススメ』白幡洋三郎、中央公論社, 1996年
  • 「木下淑夫の国立公園運動への影響」伊藤太一, ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌 : 61(3), 253-258, 1998-01-30
  • 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇 日露戦争後から敗戦まで』老川慶喜,中央公論新社,2016年

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