多様性観光を支える視点:乳がんサバイバーの入浴支援から考える [コラムvol.512]

過去のコラムでも触れたとおり、2021年度から私は誰もが旅行を楽しめるためのツーリズムのあり方について研究を行っており、特にがん患者・サバイバー(以降、「サバイバー」と表記します)に焦点を当てて取り組んでいます。

今回はその中でも女性でもっとも罹患者数が多い乳がんに着目し、様々な取り組みの一部をご紹介します。

乳がんサバイバーの特徴と旅行における課題

乳がんは女性が罹患するがんの中で最も多く、昨今では日本人女性の約9人に1人が生涯で乳がんになると言われています。

また一般的に、がんは高齢になるに従って罹患する割合が増加する傾向にありますが、乳がんは40代後半が最初のピークであり、旅行にアクティブな若い年代の方にも多いことが特徴です。

そして乳房の手術跡等を気にして温泉入浴などにためらいを感じるサバイバーの方が多くいらっしゃいます。

2023年3月にがんサバイバー支援団体ReVivが、がんサバイバーを対象に実施した調査によると、がんと診断される前に比べて診断後は旅行頻度が減った/もしくは旅行をしなかった方に理由を尋ねたところ、「人目が気になる」が50%と最も多い結果となりました。本調査の対象者の8割超が乳がんサバイバーであることを踏まえると、外見の変化が旅行を妨げる大きな要因になっていることが示唆されます。

出典:ReViv「がんサバイバーを対象とした旅行実態調査(2023年3月)」
(2022年(公財)日本対がん協会 がんアドボケート活動助成事業)

 

乳がんサバイバーの入浴を後押しする様々な取り組み

外見の変化により旅行や温泉入浴をためらう乳がんサバイバーに対しては、様々な取り組みが行われています。その中から、私が研究を進める中でお話を伺ったり、実際に訪問させていただいたりしたいくつかの事例についてご紹介させていただきます。

  • ピンクリボンのお宿ネットワーク(事務局・株式会社旅行新聞新社)
  • ピンクリボン温泉ネットワーク(認定NPO法人J.POSH)

こちらについては、すでに「観光文化」252号で紹介しておりますので詳細は記事をご覧ください。

両者とも、乳がん患者に対して様々な配慮がなされた宿泊施設を紹介しており、各施設がどのような対応をしているかについての丁寧な説明もあり、サバイバーが宿泊施設を選ぶ大きな手助けとなっています。

また、J.POSHでは入浴着歓迎の啓発ポスターやステッカーの配布・販売、また入浴着の販売も行っています。

ピンクリボン温泉ネットワーク(認定NPO法人J.POSH HP)(新しいウィンドウで開く)

ちなみに入浴着については、厚生労働省が2023年2月に「専用入浴着の着用は清潔な状態で使用する場合は衛生管理上の問題はない」と発表し、公衆浴場等における入浴着を着用した入浴への理解促進について周知依頼を発出しました。

入浴着を着用した入浴にご理解・ご配慮をお願いします(厚生労働省HP)(新しいウィンドウで開く)

これをきっかけに、より一層入浴着についての理解が広がることを期待しています。

乙女温泉

最後に紹介するのは、大浴場への入浴を後押しする取り組みである「乙女温泉」です。

乙女温泉は2020年に乳がん経験者のコミュニティ「Reborn.R」が立ち上げた活動で、温泉や銭湯などの公衆浴場を貸切り、乳がんサバイバーを中心とした参加者だけで入浴を楽しもうというイベントです。特にユニークなのが、男湯も女湯も貸切って、片方は「ファースト銭湯」として多くの人と一緒に入るのに抵抗がある方向けに、もう片方は病気の有無を問わず利用する方(女性のみ)向けに分けている点です。私はこの取り組みの記事を目にし、当事者ならではのきめ細やかな心配りに感銘を受け、いつか自分も参加したいと思っていました。

そして、実際に参加の機会を得たのは、2024年5月に札幌市の定山渓の「ぬくもりの宿 ふる川」で開催された回でした。

同宿には複数の大浴場があるのですが、そのうちのひとつ「ぬくもりSPA」はもともとが専用の湯着を着用して入る浴場であることから、当日はこのフロアを貸切ってイベントが開催されました。

当日の様子は主催者である北海道テレビの阿久津ディレクターの公式ブログで紹介されていますので、ぜひそちらをご覧ください。

乳がん患者だけど腕を伸ばして温泉に入りたい!両側乳がんになりました243(SODANE HP)(新しいウィンドウで開く)

乙女温泉の取り組みは全国各地で展開されており、このコラムが掲載される頃にはちょうど東京開催イベントに私がまた顔を出しているかと思います。東京では会場が銭湯であり、私が最初に記事で拝見した形式での開催なので、札幌とはまた違った雰囲気が楽しめるのではと今からワクワクしています。

選択肢を増やしていこう!

上記の記事中でも写真で掲載されておりますが、参加者に配布された不織布の入浴着はチェックやストライプなどの模様が入っていたり体形が出にくい形になっていたりとデザインに工夫が凝らされています。イベント中には、裸で入浴することに抵抗がある外国人旅行者や体型を気にする若い人たちにも入浴着が広まればいいのに!という声が挙がっていました。

もちろん、すべての入浴施設がそうなるべきだとは思いませんが、入浴着着用が基本という施設が増えていってもいいと感じています。

というのも、本研究に取り組み始めて実感したのは、こうあるべき、という決めつけではなくて、こういう選択肢もある、という選択肢の提示が何より重要だということです。

これまで多くのがんサバイバーの方とお話しする機会がありましたが、話を聞くたびに痛感するのはがん種が異なれば悩みが違うのはもちろんのこと、同じ乳がんで同じ治療をしたとしても症状や悩みが異なることも珍しくないことです。

サバイバーの方の中には入浴着を喜んで着用される方もおられますし、目立つから利用したくないという方もいらっしゃいます。一方では手術痕をみられても構わないという方もいらっしゃいます。また、貸切風呂はプライバシーが尊重されるからありがたい反面、料金を払ってまで利用するのはちょっと、とためらう方もいらっしゃるでしょう。

すべての人が満足できるソリューションを提供することは到底不可能です。できることは、様々な事情や悩みを持つ方が常に周りにいらっしゃる可能性に想像を巡らせ、その人に寄り添って、自分たちが提供できうるだけの選択肢を提示することだと思います。

そして、その選択肢を増やすことに各々が取り組み続けていけば、誰もが安心して楽しめる旅行の実現に近づいていく、私はそう信じています。