寺田寅彦と旅行 [コラムvol.509]

 人生のある一定期間を、文学に心を傾け、紙を食むように過ごした経験を持つ人は、万人とまでは言えないにせよ、意外に多いのではないかと思う。そのような時期に筆者が触れた文章の中でとりわけ水が合うと感じたのは、寺田寅彦の随筆であった。

 寺田寅彦(1878 – 1935)は、東京帝国大学に籍を置いた物理学者である。地震や津波に関する寅彦の言説は現代のメディアで定期的に取り上げられるため、今日においては防災・地震学者のイメージを抱く人があるかもしれない。実際に、寅彦は1923年(大正12年)の関東大震災の際、寅彦は事後調査に参加しており、また同大地震研究所の設立にも大きな役割を果たしている。
 職業的自然科学者としての事績を残す一方で、寅彦は絵画、音楽、俳諧などに深く親しむ芸術の人でもあった。こと文学については旧制高校時代から夏目漱石の薫陶を受け、その後生涯にわたって多数の作品を残した。

 今般、偶然の機会を得て寅彦の随筆を読み返すと、旅行を題材とした小品が、過去の印象よりもずっと多くあることに気付いた。観光に関わる仕事をする立場となって、以前とは見え方が変わったのかもしれない。ちょうど本稿を書くタイミングが重なったので、印象的な作品を幾つか取り上げてみることにした。
 なお、本稿に挙げる寅彦の随筆は既に著作権が消滅しており、正当な方法によってweb上に全文が公開されている。逐一リンクを張ることは避けるがwebブラウザ上で読むことができるので、気になった作品については検索し、触れて頂ければ嬉しい。

旅と随筆

 『東上記』は、1899年(明治32年)帝大への進学にあたって上京する青年の、瑞々しい旅行記である。京都から逢坂の関を越えて至った琵琶湖を「鳰の海」と記し、百足山(三上山)を望んで大百足退治の伝説を思い起こす様子は、詩歌や物語の中にあった「ナドコロ」の実在を確かめるような、旅への新鮮な高揚が伺える。
 上京からちょうど10年後の1909年(明治42年)、理学博士となり助教授の職を得た寅彦は欧州へ留学する。中国から香港、シンガポール、その後はマラッカ海峡を抜けてペナン(マレーシア)、コロンボ(スリランカ)に寄港し、スエズ運河を経て地中海に至る船旅の道程は、『旅日記から』に見ることができる。留学先であるベルリンでの生活や、欧州各地への訪問について記した作品は複数あるが、『異郷』や『二つの正月』はその端的な例である。留学を終えた寅彦は1911年(明治44年)にアメリカを経由して日本に帰国するが、『チューインガム』に描写される同国でのカルチャーギャップや税関での待遇は、海外での一種独特な居心地の悪さを思い起こさせる。
 帰国後、寅彦は終生東京に居を定めたが、国内各地へのさまざまな形での旅行を随筆に残している。『札幌まで』では旅の目的は明示されていないが、文中に「大学構内」とあることから、札幌市内の北海道帝国大学を訪問したのだろうか。やや淡々とした筆致からは、現代にも通底する出張旅行の雰囲気が感じられる。『静岡地震被害見学記』は1935年(昭和10年)7月に発生した静岡地震の被災地を訪れた際の記録であるが、岸壁や民家の損壊に関する描写や考察など、業務的な往訪記録の趣が感じられる。また、『浅間山麓より』『小浅間』『小爆発二件』など複数の作品には、信州浅間山周辺への訪問や観察の様子が描写されている。浅間山麓峰の茶屋には1933年(昭和8年)に火山観測所が設置され、同施設は翌年に東大地震研究所へ移管されている。後述する夏季休暇の滞在拠点が近隣の軽井沢であったため、避暑旅行と合わせて訪問したケースもあったと思われるが、こちらも自然科学者としての仕事の意味合いが強いだろう。
 これら硬めの旅行記録とは対照的に、『箱根熱海バス紀行』における家族旅行の様子はいかにも楽しげである。また『軽井沢』『沓掛より』『高原』『あひると猿』には、毎年の定宿であったらしい信州星野温泉への、家族連れ立っての避暑旅行が綴られている。植物を観察し、鳥の声を聴く滞在の様子は全体に牧歌的である。年によってはここで2週間を過ごしたとあるから、まさに世界水準の高原リゾート滞在といえる。余談となるが、(本稿の)筆者が観光業界に縁もゆかりもなかった時分に、これらの滞在記を始めて読み、「星野って、あの星野?」と素朴きわまる発見をしたことを覚えている。
 安楽で快適な避暑旅行が書かれる一方で、友人とともに都会の喧騒を離れて足を伸ばした『伊香保』では、何かにつけて小さなトラブルに見舞われる、ままならない旅行の様子が綴られる。同じ旅館に投宿した団体旅行客の賑わいを苦々しく、それでいて完全に無視するでもなく、時におかしみを感じながら描写するまなざしには、共感を覚えなくもない。
 遠方を訪れる旅行に加えて、寅彦は都内近郊にもしばしば脚を伸ばしたようだ。銀座界隈や百貨店へのちょっとした訪問の記録は、『丸善と三越』『銀座アルプス』『コーヒー哲学序説』など複数の作品に描写されている。これらは旅行とまでは言えないかもしれないが、震災後の京橋方面へ花火見物に出かける『雑記(2』、風景画や写真の題材を探して都内近郊を散策する『写生紀行』『カメラをさげて』には、週末の「銀ブラ」の延長線上にありながら、一定の目的を定めた小旅行の雰囲気が感じられる。
 『異質触媒作用』のうちの一編では、運転手付きの自動車を仕立てて、都内から奥多摩方面へドライブに出かけている。同編が書かれた1933年(昭和8年)時点の自動車旅行は、「自動車で田舎へ遊山に出かけるというようなことは(中略)奢りの極みであるような気が何となしにしていた。二十年前にはたしかにそうであったにちがいないが、今ではもうそれほどでもなさそうに思われた」といった位置づけで、簡易ながら「鉄道省で出来た英文のモーターロードマップ」なども発行されていたようだ。「杉並区のはずれでやっとともかくも東京を抜け出す」という描写からは、戦前における東京都市圏の範囲とその後の膨張を思わせる一方で、「どこまで行ってもなかなか田舎らしい田舎へ出られないのに驚いた」という感想は、現代にも共通するものがあるかもしれない。帰路の一幕には夕景の中の「武蔵野特有の雑木林の聚落」の美しさが綴られており、国木田独歩の『武蔵野』に描かれた景のイメージは、この頃には既に広く共有されていたことが伺える。
 この他、寅彦は記憶の中にある過去の旅行についても、その思い出を振り返る形で幾つかの随筆を残している。『初旅』には、中学時代の後半に甥と2人で、大人を連れずに出かけた初めての旅行が綴られている。旧制中学校であるから現代の中学生より年齢は少し上であるが、寅彦の郷里である高知県から淡路島の室津まで、「往復四、五日の遠足」というから、初旅としては大胆な部類に入るのかもしれない。『どんぐり』で描写されるのは自宅から植物園へのごく小さな旅行であるが、そこには既に思い出の人となった、乾いた喪失の悲しみがある。『夏』には夏を題材とする小品4点が集められているが、ここでは洋行中に遭遇した各地の暑熱や、中学校時代の京都への修学旅行、旧制高校時代に訪れた炭鉱の見学、帝大時代に行った釜石への調査行など、さまざまな非日常の「夏」が切り取られている。

まなざしの感覚

 以上に挙げたものは全体の一部であるが、寅彦は自身のさまざまな旅行を、随筆の形で筆まめに記録した。その見聞や思索の過程は落ち着いた筆致でありながら、不思議と心に迫るものがある。端的に言えばそれは稀有なセンスの賜物であろうが、文学的な才覚以外に要因を求めるのであれば、寅彦は観察・鑑賞の対象となる物事や風物だけでなく、それらを視るにあたっての「見かた」、まなざしに対する鋭敏な感覚を有していたのではないかと思う。

 『伊吹山の句について』で、寅彦は芭蕉の句「おりおりに息吹を見てや冬ごもり」に関する議論に触発され、伊吹山周辺の地形や冬季の気候について思索を巡らせている。地形は地形図に、気候は測候所から取り寄せたデータに基づいて考察する様子は自然科学者的な態度であるが、一方では伊吹山の山容について、「急峻な姿をしているのであるが、大垣から見れば、それほど突兀たる姿をしていないだろう」「富士のような孤立した感じはないに相違ない」など、その山麓から仰望した「感じ」についても言及している。
 『田園雑感』には都会と田舎の人の違い、自然の美しさ(同作における表現では「親切さ」)、失われつつある国内の習俗、などが語られるが、自然や習俗そのものが有する価値と並列に、その深淵や背景を認めうるまなざしについても言及しているように思われる。例えば、寅彦は冒頭で自身が今のところは都会での生活を希望し、実行していると述べた上で、次のような話題を挙げている。

 六つになる親類の子供が去年の暮れから東京へ来ている。これに東京と国とどっちがいいかと聞いてみたら、おくにのほうがいいと言った。どうしてかと聞くと「お国の川にはえびがいるから」と答えた。
 この子供のえびと言ったのは必ずしも動物学上のえびの事ではない。えびのいる清洌な小川の流れ、それに緑の影をひたす森や山、河畔に咲き乱れる草の花、そういうようなもの全体を引っくるめた田舎の自然を象徴するえびでなければならない。東京でさかな屋から川えびを買って来てこの子供にやってみればこの事は容易に証明されるだろう。
 私自身もこのえびの事を考えると、田舎が恋しくなる。しかしそれは現在の田舎ではなくて、過去の思い出の中にある田舎である。えびは今でもいるが「子供の私」はもうそこにはいないからである。
しかしこの「子供の私」は今でも「おとなの私」の中のどこかに隠れている。そして意外な時に出て来て外界をのぞく事がある。

 『案内者』における主題は科学における案内者であるが、その書き出しは旅行と、旅行案内記から始まる。同作ではある場所で旅行案内(を入念に予習した同行者の案内)によって、見逃してはならない景色を鑑賞することができた経験を紹介する一方で、「読んだ案内書や聞いた人の話が、いつまでも頭の中に巣をくっていて、それが自分の目を隠し耳をおおう」として、事物を視るまなざしを事前に準備することの利点と欠点を挙げている。
 「目はその言葉におおわれて「物」を見なくなる。」という一節は、ともすれば口コミやガイドブックの再確認、SNSで見た風景の再現に腐心する現代的な旅行への警句とも取れるかもしれない。また同時に、「職業的案内者がこのような不幸な境界に陥らぬためには絶えざる努力が必要である」との指摘は、科学における案内者として教鞭を取った寅彦の自省的な言及であったようにも思われる。