![AI時代に筆を作る意味とは? ~奈良の筆屋の取組から伝統工芸の未来を考える~ [コラムvol.521]](https://www.jtb.or.jp/wp-content/uploads/2025/03/goto_image2.png)
私は、いつ筆を使ったのか?
最近、ペンを使わなくなってきました。普段使いで筆をまったく使いません。多くの方が私と同様に、パソコンやスマホを使うようになり、文字を書くことが減ったのではないでしょうか。文字を書き残すために発明された筆は、万年筆や鉛筆、ボールペンに姿を変え、今ではそれすらもデジタルに置き換わろうとしています。アナログの象徴である筆は将来的に「失われる運命」にあるのだろうか、そんなことを私は考えるようになりました。
きっかけは、奈良市にあるあかしや
*1という筆屋を訪問し、筆の置かれた現状を学んだことです。旧友がこのあかしやで働いており、「観光」に興味があると相談を受け、最初は「観光?」と戸惑いましたが、話を聞くうちに、この筆の価値や意義を、観光を通じて見直す取り組みの素晴らしさに共感するようになりました。
旧友の話から、日本の伝統工芸が危機に瀕していることや人から人へ受け継がれる技術であることなどを学び、これらの課題が私の研究しているお祭りに代表される無形文化財や無形民俗文化財の保存継承の課題感と類似していることが良くわかりました。この筆屋の旧友の取り組みはまだ、始まったばかりですが、今回は私の考えも含めてこの大変興味深い「筆屋の観光」を報告したいと思います。
尚、今回取り上げる「観光」とは、体験プログラムなど観光商品の企画販売のことを指しております。
伝統工芸とは何か?
その前に、伝統工芸とは何かについて確認したいと思います。伝統工芸は、昭和49(1974)年に施行された 伝統的工芸品産業の振興に関する法律
*2に定められた「主として日常生活の用に供されるものであること」「伝統的な技術又は技法により製造されるものであること」など5つの要件を基に国が「伝統的工芸品(経済産業大臣の指定を受けた工芸品)」として指定したものとなります。
この法律は伝統的工芸品を「民衆の生活の中ではぐくまれ受け継がれてきたこと及び将来もそれが存在し続ける基盤がある」とした上で、「国民の生活に豊かさと潤いを与えるとともに地域経済の発展に寄与し、国民経済の健全な発展に資すること」を目的に制定されたものでもあります。現在ではこの法律に基づき、国は243品目を伝統的工芸品に指定し、伝統的工芸品産業振興協会
*3が伝統的技術・技法を有しているものとして約3,300名の伝統工芸士を認定し、伝統的工芸品の保存継承、振興に取り組んでいます。
このように国が支援をする一方で、課題も多く、伝統的工芸品産業振興協会の資料によると、伝統的工芸品の生産額及び従業員数は平成10(1998)年の2,784億円・115千人から令和2(2020)年には870億円・54千人と大幅に減少しています。伝統工芸を取り巻く状況は年々難しい状況になっていることが分かります。
奈良筆の歴史と現状
続いて奈良筆は、奈良県奈良市および大和郡山市周辺で作られる伝統的な筆で、その歴史は古く1200年以上の歴史を持ち、起源は弘法大師空海が唐から筆の製法を持ち帰り、坂名井清川に伝授したことと言われています。これが、奈良筆、日本の筆づくりの始まりとされています。江戸時代には奈良筆の名は全国的に知られており、明治時代以降は学校教育制度とともに全国で筆が使用されるようになり、現在でも書道筆として多くの書道家に愛用されています。
例えば、広島県の熊野筆のように化粧筆に活路を拡げる筆もありますが、「文字を書く」ための書道筆として長く愛され、販売されてきたという特徴を持つ奈良筆は、少子化時代においては学校の書道で使われる数量が減少するなど極めて厳しい状況に追い込まれています。
また、現在、奈良筆の伝統工芸士は7名ですが、高齢化が進んでおり、技術の継承が難しい状況に陥っているようです。このような状況から、今回訪問したあかしやでは筆職人の育成を目的に伝統工芸士の指南の下、従業員が午前中に筆づくりの勉強をする制度を設けるなど職人の育成に取り組んでいるようです。
字を書かない時代に、書くための「筆の価値」を創り、「仲間」を創る
今回は、あかしやの若手社員が企画した2件の体験プログラムを紹介したいと思います。まず、これらの体験プログラムを企画する上でのコンセプトを「伝統と未来を筆で繋ぐ旅 一人ひとりが文化の守り手に」としているとのことです。
その理由は、なんのために筆屋が観光に取り組むのかを考えた際に、「奈良の伝統産業である奈良筆を支える職人たちは、代々受け継いできた技術と豊かな歴史に誇りを持ち、それを未来へと継承することに力を注いできた。しかし、多くの伝統工芸同様、その継承は厳しい状況」の中で「奈良筆に触れて頂く多くの皆様とともに、その価値を再認識し、次世代へと繋げることを目指したい」という考えに至ったからだそうです。「技術」や「誇り」を胸に、観光を通してこれまでとは異なる「仲間」「ファン」創る取り組みという点にとても感銘を受けました。
[書道アートづくり体験]
これまで既存の体験プログラムの参加者の声として、「私は字が上手ではないので、上手な社員さんの書いた書が欲しい」という要望があり、筆そのものではなく、アートとして書を見ることにニーズがあるのではないかと考えたことが企画の発端とのことです。
体験プログラムは、奈良と奈良筆の歴史を説明し、学んだ上で、色紙に初心者でも書きやすい文字等を書いてアート作品を制作するという体験です。自分で書いたアート作品を旅の思い出と共に持ち帰り、自宅に飾ることも出来る、また、プレゼントもできるという素晴らしい内容です。
文字だけでなく、筆や硯などこれまで道具として使用することが目的であった物をアート作品として鑑賞するものに変えていくことも目的で、奈良や奈良筆の持つ歴史的な背景や職人の思いをその価値の「証明(裏付け)」にすることで、更に価値を上げている点も素晴らしいと思いました。
[木簡づくり体験]
木簡は木に墨で文字を書いたもので、当時の人々が連絡事項を書いたり、荷札として使われたものが代表的です。現代でも絵馬や表札などに木書文化は残っていますが、生活の中で木に文字を書く習慣は失われたと言っても良いのではないでしょうか。個人的にはとても好きな文化資源ですが、その木簡を作る体験と聞き、初めは半信半疑でしたが、内容は素晴らしいものでした。
まず、材料の木の板を選びます。この木の板は、奈良県南部の間伐材を利用しており、風合いが全て異なり、選ぶだけでとても楽しいものです。当初は海外産の安価なものをサンプルにしたようですが、木簡の雰囲気をより感じてほしい、またこの活動が奈良の林業のPRに繋がればと、高価な県内産を選んだようです。
次にこの板に文字を書く際には、雰囲気を出すため当時のかな文字や崩し文字のサンプル等を用意し、初心者でもそれを真似て書けるような工夫をしていました。そして、最終的には、紐が付き、キーホルダーのように持ち運べるようになります。
この木簡づくり体験を通して、奈良や奈良筆の歴史を体感するだけではなく、当時の人々が記録のため、或いは手紙のように思いを伝えるために筆を使用したことを今では「失われた」文化である木簡を通して上手に見せている点が素晴らしいと感じました。
観光が伝統的工芸品の振興や技術の継承に寄与する可能性
私は今回、これらの「筆屋の観光」への挑戦を伺い、観光が伝統的工芸品の新たな価値を見出す「場」になることが出来ることに改めて気づくことが出来ました。今後もAI時代に筆を作り続ける筆屋の挑戦に注目し、微力ながら私ができる応援・支援をしていきたいと思います。特に最近私はデジタル技術の進化は、実はアナログ技術の進化にもつながるのではないかと思い始めています。もし仮にその間に、「観光」があり、関与し、例えば伝統的工芸品の振興や技術の継承に寄与するのであれば、「観光のチカラ(価値)」がその媒体として役立つことが証明されます。観光のプラスの可能性を信じ、今後も「無形」の文化財の研究を進めて参りたいと思います。