草津温泉は、今勢いのある温泉地の一つと言えるだろう。2023年には過去最高の来訪者数を記録し、また観光経済新聞社主催「にっぽんの温泉100選」では21年連続1位を獲得している。実際にまちなかを見渡しても、浴衣を着てそぞろ歩きをする若者で昼夜問わず賑わっている。なぜ草津温泉はこれほどまでに多くの人を惹きつけ続けるのだろうか。草津温泉に関する書籍や考察は数多く存在し、全てを語ることはできないが、ここでは草津温泉のまちづくりの変遷を概観し、その魅力の理由を考察する。
湯治場としての草津温泉
草津は、強酸性で殺菌力の強い特殊な泉質が「万病に吉」とされ、療養泉・湯治場として長らく人気を誇ってきた。草津の地名が記録に現れるのは1472年の本願寺蓮如の湯治記事が最初と言われている。その後江戸時代に入ると草津は徳川幕府の天領となり、「天下泰平」により多くの平民が湯治として草津を訪れ、湯屋や湯宿が整備された。その評判ゆえに遠隔地からも湯治客が訪れたという記録が残っている。
明治期以降、多くの日本の温泉は都市住民の保養の場、慰安の場としての機能も持つようになっていった。しかし草津ではその泉質が病気の治療に有効だとされていたことやアクセスの悪さ等が要因となり、引き続き湯治場としての特性が保たれていた。
ベルツによりもたらされた「保養地」という概念
草津に影響を与えた人物として無視できないのが、1876年に来日したドイツ人医学者・ベルツ博士である。ベルツは東京医学校(現東京大学医学部)にて勤務していたが、草津温泉の泉質や「時間湯」を始めとする入湯法による医学的有効性、また周囲の豊かな自然環境に惹かれ、度々草津を訪れることとなる。草津の周辺部に新たな保養地を作るというベルツの計画は彼の帰国により途絶えたが、「温泉保養地」「リゾート」という概念をもたらしたという点で、ベルツ博士は草津に大きな影響を及ぼしたということができる。
またこの時期、草津温泉では「まちづくり」の芽生えともいえる動きが生じる。1887年に温泉改良会が発足したが、その際に集められた意見書には、草津の改良には村民一致の協力体制が不可欠だと記載されており、村民がまちづくりに関わる重要性が唱えられていると言える。
スキー場開発・高原開発
日本にスキー技術が伝えられたのは1911年だが、草津ではその4年後にあたる1915年にスキークラブが誕生した。その後1931年には日本初のスキー学校が草津に誕生し、1948年には地元スキークラブの有志により天狗山スキー場に日本最初のリフトが造られ、昭和40年代中頃までには草津全山にわたってスキー場が開かれた。このようなスキー場開発により、草津の客層は湯治客から観光客へと変化していくこととなる。
また、スキーの人気向上に伴う観光客増加に対応するため、昭和35(1960)年には高台の開拓・別荘地化の方針が記載された「草津高原都市構想」が発表された。その後昭和43(1968)年には地元資本により草津初の本格的リゾートホテルが誕生し、1970年代を中心に草津外の企業による別荘地開拓も積極的に行われた。石油危機を機に一旦土地開発は沈静化したものの、昭和50年代に入ると草津内外の企業によりリゾートマンションの開発が進められた。
中心部の再開発・町並み環境保全開始
周辺部で進むリゾート開発の一方で旧態依然としていた中心部の再開発が、昭和50年代頃より一気に進められた。昭和50(1975)年には、岡本太郎の設計により湯畑が再整備された。また、昭和43(1968)年には「時間湯」を行っていた熱乃湯が湯もみショーの場に生まれ変わる、昭和58(1983)年には共同湯「大滝の湯」が設置される等、中心部に着目した大規模な開発が行われた。
その一方で、昭和63(1988)年に「歴史と伝統を守る会和風村」が組織され、住民を中心としたまちづくりも進んだ。会は旧来の伝統的町並み景観や温泉情緒の大切さを認識した旅館により構成され、まずは湯畑に近い滝下通りにおいて電柱の移設や沿道の緑化、旧来の建築様式の再現などが行われた。
低迷期における方針の再確認
平成9~11年にかけて「草津温泉ブラッシュアップ計画」が策定された。バブル経済崩壊による低迷期を経てもう一度草津温泉の魅力をブラッシュアップしよう、という計画である。3年間かけて策定された本計画では、培ってきた温泉文化を見直し現代に新たな湯治場を再現するとされている。
また平成13年にはスキー需要の低迷に伴い、冬の誘客を再検討するために旅館組合を中心に「草津の冬を考える会」が発足した。議論の末、「草津は季節を問わず、売りは温泉そのもの」という結論にまとまり、「泉質主義」宣言が発表された。この宣言は、現在でも草津において大きく掲げられている。
その後平成15年には「草津温泉歩きたくなる観光地づくり」に向けた調査が行われ、ワークショップ等には数百人が参加する等、住民のまちづくりへの参画は継続して行われた。
「街づくり協定」に基づく官民によるまちづくりの推進
草津町は平成21(2009)年に景観行政団体となり、国土交通省の「街なみ環境整備事業」に基づいて景観づくりを推進する方針を定めた。「街なみ環境整備事業」を活用して補助金を受けるためには、まず地権者の2/3以上の合意を得て「街づくり協定」を締結する必要がある。そのため平成21(2009)年から各地区において順次勉強会やまち歩きを行い、街づくり協定を作成・締結した。その結果始まった「街なみ環境整備事業」には、行政による景観事業と、住民が行う修景事業が含まれる。前者については、湯畑に隣接する駐車場を撤去して共同浴場「御座之湯」建設(2013年完成)と賑わいを創出する「湯路広場」整備(2014年完成)を行う、「熱の湯」を再建する(2015年完成)等、湯畑を中心に大規模な事業が多数行われた。後者の修景事業については、行政による景観整備の効果が出始めると申請件数が増加していった。なお、修景の申請は地元により構成される「まちづくり協議会」にて審査される。住民が自ら、ルールに則った修景であるかをチェックするのである。低迷していた草津温泉の入込客数はこの頃から増加し始め、2023年の過去最高入込客数更新に至る。
その後、西の河原公園整備(2018年完成)、BAN ZIP TENGUのオープン(2019年)と天狗山スキー場の通年営業開始、「裏草津地蔵」整備(2021年完成)、草津温泉入口付近の「温泉門」整備(2023年完成)、天狗山スキー場におけるパルスゴンドラと飲食店整備(2023年完成)等と、行政による整備は次々と行われており、それに伴い民間の新たな投資も見受けられる。今後はバスターミナルの改修やスキー場におけるレストハウス建設も予定されており、草津温泉はまだまだ進化していくと予想される。
これからの草津温泉
草津温泉のまちづくりの歴史はこれだけでは語りつくすことができないが、上記の概観を踏まえてポイントを2点挙げる。まず草津温泉のまちづくりは、長い時間軸で進められてきた。泉質や豊かな自然環境、雪山、古い町並み等といった地域特性を活用しながら、時代の潮流に合わせて魅せるものや魅せ方を絶え間なく更新し、進化してきている。また、官民双方が主体的に取組を行ってきたという点も重要である。行政はまちづくりの骨格形成やハード更新を担い、また住民主体の取組が草津温泉のまちづくりを前に推し進めている。
ポストコロナの今、日本の多くの観光地は大きな環境変化に直面している。前代未聞の人材不足により、今後従業員のみならず民間事業者の後継者やまちづくりを担う人材も減少することが懸念されている。草津町も例外ではなく、人口減少が進んでいる。また行政によるハード整備の推進や観光客数の増加を受けて外部からの投資が行われている一方で、地元に根付いた事業者の体力低下も生じている。そういった状況を解決するためには、「サステナブル」「DX」等とも紐づいた抜本的な改革が必要なのではという声も聞かれる。また今までまちづくりを担ってきた世代が交代するタイミングで、外部参入者も含め次の世代にその精神を引き継げるかどうかも重要なポイントかと思われる。
様々な時代の変化を乗り越えてきた草津温泉が、今後またどのように危機を乗り越えていくのか、引き続き着目し続けたい。
【参考文献・引用】
- 木暮金太夫・中沢晁編著(1990):『ベルツ博士と群馬の温泉』 上毛新聞社
- 山村順次(1992):『草津温泉観光発達史』,草津町役場
- 黒岩裕喜男(2012):「泉質主義」を貫き時代を紡ぐ草津温泉,『観光文化』,第215号,pp.13-18
- 公益財団法人日本交通公社(2014):『温泉まちづくり研究会2013年度総括レポート』,pp.29-76
- 写真(湯畑):草津温泉観光協会写真ギャラリーより引用