品格ある観光、節度ある観光、責任ある観光-まちづくりと観光事業⑬ [コラムvol.457]

発出されていた緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置が9月30日をもって全都道府県で解除された。新型コロナにより大きな打撃を受けた観光業界や観光地では、観光再開に向けた期待が高まる中、観光活動が本格化する前に備え考えておくべきことは何だろうか。

「品格ある観光、節度ある観光、責任ある観光」

私はこの三つだと思っている。

品格ある観光

ここで言う品格とは、いわゆる格式ばったものや格式の高いものを意味しない。地域の人々が自らの歴史・文化に誇りを持ち、堂々と暮らしている、そんな人々の生き様や生き方自体が人を惹き付ける地域の魅力の根源であり、それらがまちの品位、気品をカタチづくっている。日々の暮らしに根差した文化が拙速には生まれないことを理解し、まちづくりの過程を大事にして丁寧に歩んでいる。そんな地域のまちづくりを基盤とした観光のあり様をここでは「品格のある観光」と呼びたい。

「品格ある観光」を考える上で、筆者自身に影響を与えた地域を一部紹介する。1960年代後半から暮らしの中身から観光を立ち上げてきた「生活観光地」由布院。歴史と文化に責任を持つまちとしてまちづくりと人づくりを行ってきた「まちづくり都市」金沢、近江商人としての倫理、道徳を大切に今でも質素倹約に生きる「終の栖のまちづくり」を続けた近江八幡。

華やかなものを観光客向けに安易に仕立てあげるのではなく、洗練されてはいない土着のもの、鄙びたもの、ハレではなくケの暮らし中に息づく文化の重要性にも気づき、時間を掛けて守り育て磨いてきた、そんな地域である。そして、地域の魅力の正体とは何か、地域の個性とは何か、地域らしさとは何かを議論し続けてきたまちで「世界観のある地域」だと筆者が感じる地域である。こうした地域は一朝一夕にはできない。

さて、「観光地の品格」として既に端的にまとめられた文章があるので紹介しておく。

「魅力的な観光地とは、わがままを何でも受け入れてくれるような受動的なところではなく、生き方へのメッセージをなげかけてくるようなところだと考えています。メッセージの発信者はいうまでもなくそこに暮らしている人たちです。彼らの静かなる誇りが、表情やしぐさとして表現されて観光地の品格をつくり、その品格が人を魅きつけているような気がします。」(寺崎,2008)

品格ある観光には、日々の暮らしの中にある心の豊かさを意識したまちづくりが欠かせない。

節度ある観光

「過剰な観光(オーバーツーリズム)」による好ましくない影響が確認された近年、改めて考えさせられたのは、観光か生活かの単純な二者択一ではなく、どの程度に観光を留めて暮らしの質を維持していくかであろう。問題現象が顕在化していない地域においても、観光のみに過度に依存しない「節度ある観光」について一度考えてみてほしい。近年の指標を用いて状態や進捗を把握する動きや規範・ルールづくりも「節度ある観光」の一つの顕れだと見ている。

「節度ある観光」には、全体を見る目と変化への反応を細やかに読み取る目がまずは必要となる。前者については、広がる観光領域をただ取り込んでいっただけでは成し遂げられない。ここ数年の観光に関わる領域の総合・統合化とはやや異なるからだ。観光に直接関係のない領域も含む「全体」を見て観光を相対的に捉え位置づける視野を持ち、観光に限らない具体的な取組・事業を実行していくことになる。例えば、竹田市・長湯温泉(大分県)では、単眼思考を避け複眼思考で地域経営がなされてきた。個性ある温泉地づくりの一環として、温泉を活かした足元の健康づくりにも取り組んできた。また、土湯温泉(福島県)では、東日本大震災を機に温泉熱を利用した再生可能エネルギーによる発電売電事業にも取り組むなど、観光一本足にならないための取組が展開されている。

「過度な観光地化」による観光公害を防ぎ、節度ある観光を進めるためには、「望ましい観光のあり方とは何か」を正面から考えるだけではなく、一つの分野への過度な依存、偏重をどう(未然に)防ぐか、そして、観光産業以外に地域が拠って立つ新たな施策、産業振興に試行錯誤することである。それは簡単なことではないが、時間を掛け着実に取り組んできた先駆的な地域が現に存在しているのだ。そこには、観光をどうするかというビジョンではなく、まち全体がどういう方向に歩んでいくかについての確固たるビジョンがある。

その他、「節度ある観光」としては、由布院からはほどほどの哲学、近江八幡からは磨き過ぎず温存するという考え方を学んだ。これらについては別の機会に述べる。

責任ある観光

近年、観光業界で聞かれる言葉の一つが「責任ある観光」である。「レスポンシブル・ツーリズム」とカタカナで紹介されることも多い。コロナ前のオーバーツーリズム時期から聞かれていた言葉ではあるが、コロナ禍においてより発出されている印象がある。ただし、責任ある観光については、昨今は旅行者にフォーカスした責任を求める情報が先だってしまっているようにも感じる。旅行者の責任ある行動はもちろん重要である。旅行者の価値観の変化とそれに伴う行動変容が観光地の健全化に寄与するのは言うまでもない。

他方で(観光というより)まちづくりを機軸に考えると、自らのまちの責任は、住んでいる人自身がまず持つべきもので、旅行者の責任を切り出して問うことに違和感がある。また、自らが住まう地域で、そして他の地域で旅行者に求める行動を取れているのかという点でも違和感を生じる。近年環境問題への関心は高くなっており、旅行者に環境配慮をした行動を求める動きもあるが、そもそも自らの足元での暮らしはどうだろうか。質素倹約な暮らしを今でもする近江八幡を見ると、自分たちの暮らしの中にそうした意識がないと、矛盾を生じないだろうか。

自らの行動を律するとは、根源にある人間の際限のなき欲求を律することができるかということである。律し方にはいろいろあると思うが、究極的には、今の生活が先祖から受け継いできた「預かりもの」であるという自覚と、未来の世代、子供たちの「幸せな人生」を想いどのような社会を、環境を残していくのかという使命感でしか決断できないような気がしている。三方よしの精神を伝える近江八幡には、「吾、即ち先祖の手代なり」という言葉が引き継がれている。そして「まちづくりとは、子孫にどのような環境を残すかについて考え行動すること」と定義し、「浪費なき繁栄」を志したこの地域の生き方、生き様を見ると、そう思ってしまう。由布院でも、1977年に「この町にこどもは残るか」というシンポジウムを開催している。何の目的で誰のためのまちづくりなのか、そのあたりが見えていないと形だけの取り組みにならないか、やや心配される(余計なお世話だろう)。

さいごに

「品格ある観光、節度ある観光、責任ある観光」、この三つはそれぞれ相互に関連し重なり合うものであるため上記のように分解してしまうことが適切かはわからないが、地域での「観光再始動に向けた心構え」として観光に関わる皆さんと一緒に考えていければと思う。

なお、今回の3つの観光は私が考えたことではない。既に述べられていることを三つに整理したに過ぎない。個別の事例ベースで理解することが重要と考えるため、関心があれば、以下の資料(一部)を通して読んでみてもらえるとありがたい。

参考文献

  • 中谷健太郎『たすきがけの湯布院』(1984),『湯布院幻灯譜』(1995.7),『湯布院発、にっぽん村へ』(2001.9),『毛づくろいする鳥たちのように』(2005.4),『由布院に吹く風』(2006.2)など
  • 溝口薫平『虫庭の宿―溝口薫平 聞き書き』(野口智弘,2009.8)
  • 山出保『金沢の気骨—文化でまちづくり』(2013.4),『金沢らしさとは何か―まちの個性を磨くためのトークセッション』(+金沢まち・ひと会議、2015.12),『まちづくり都市 金沢』(2018.1),『都市格を磨く―金沢、まちづくりへの思い』(2021.3)など
  • 川端五兵衞・かわばたごへえ『まちづくりはノーサイド』(1991.6),『続・まちづくりはノーサイド』(2017.12),「観光は終の栖の内覧会~死に甲斐のある終の栖のまちづくり」『観光文化 240号』(2019.1)など
  • 田中宏樹「地域らしさと町の品格に相応しい観光振興のあり方とは」『観光文化 240号』(2019.1)
  • 首藤勝次『御前湯日記』(2001.6),「有由有縁 市長コラム」『広報たけた』(2009.8-2021.3)
  • 寺崎竜雄「「観光地の品格」について考えてみませんか」[コラムvol.15](2008.1.18)